ニュートンは政治・行政の世界とは縁遠い大学教授であったが、王立造幣局長官として鮮やかな手並みを発揮した[1]。部下の捜査員に変装用の服を与えるなどして捜査を進めさせ、偽金製造シンジケートの親分ウィリアム・シャローナー(英語版)を捕らえ、裁判にかけて大逆罪で死刑にした[1]。ニュートンが造幣局長官に在職している間は、偽金造りが激減したといわれる。
他方で、ニュートンは貨幣鋳造のために、貨幣の正確な重量やその測定基準を新たに制定した[10]。このときニュートンは、銀貨と金貨の相対価値 (金銀比価)を設定するにあたり、市場の銀の相場を見誤り、銀貨の貨幣価値を銀自体より低く定めてしまった(ニュートン比価)。これにより、銀貨が溶かされ銀の鋳塊が金貨と交換される事態を引き起こした。この結果として、銀貨が実質的に価値を損ない、イギリスは事実上の金本位制に移行した[注 18]。
なお、造幣局勤務時代にニュートンは、給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなりの金銭的余裕を得た[1]。 ニュートンは株式投資も実践していた。ニュートンは長年にわたって手堅い投資を心がけ、その運用成績も好調だった。株式や国債などに分散された投資ポートフォリオは、1720年の年初時点でおよそ3万2000ポンド[注 19]に相当した[10]。 この頃のイギリスでは株式市場が発達し、株式ブームが起こっていた。当時、特に南海会社は特に人気があった。イギリス政府が額面100ポンドで売り出した南海会社株は爆発的な人気を集めていた。時はやや遡るが、かつてニュートンは王立造幣局長官として、当時増大していたイギリス政府の公的債務の整理問題にも携わっていた。このとき、当時はまだ小さな業績不振の貿易会社に過ぎなかった南海会社を知った。当時の南海会社はまだ人々から注目されていなかったが、ニュートンは南海会社の事業内容に将来性を感じ、南海会社の設立[注 20]から間もない1712年6月に株式を購入していた[10]。やがて株式ブームの時期には、ニュートンは1720年までに南海会社株に1万ポンドの個人株式投資を行っていた。その後も南海会社の株価はニュートンの予想通りに大きく上昇し、8月には株価が1000ポンドを突破した。 この株価上昇の期間に、ニュートンは南海会社の株式を一旦売却して利益確定した。しかし、南海会社の株価はさらに上昇し続け、まだまだ南海会社の株価は上がると見込んだニュートンは、南海会社の株を再度購入した。ところがその後、南海会社の株価はニュートンを含む人々の思惑・予想に反して大暴落した。結局ニュートンは、南海会社の株で7000ポンドの利益を出したが、その後の大暴落で2万ポンドの大損をしたのであった[1][注 21][11][10]。この株式相場で金銭的にも精神的にも深い大きな傷を負ったニュートンは次の言葉を残したとされる[12]。 「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない。」 ?アイザック・ニュートン この南海会社の株式相場では、多くの資金と投機が飛び交い、異常なマネーゲーム、狂乱相場となったことから、イギリスの株式市場の歴史の中でもっとも悪名高い南海泡沫事件として、今日知られている[注 22][13]。 科学の研究活動としては、ニュートンは造幣局に勤めてからは錬金術に没頭していた。ただし、これは現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究ではないとされる[注 23]。一方、神学の研究において、晩年のニュートンは『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著した。しかし、これはイングランド国教会の教義とは異なるため[注 24]、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)[1]。
個人投資家のニュートン
錬金術研究と聖書研究