生前の実父は、ヨーマン(独立自由農民)と貴族との中間的な身分[注 5]であり、郷士のような存在であった。農園を営み、37歳のときに近郊の農家の娘だったハナ・アスキューと結婚した。バーナバス・スミス(ニュートンの義父。後述)によると、実父アイザックは「粗野な変人」であったとされる。
ニュートンが3歳のとき、母ハナ・アスキューは近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚した[注 6]。このとき、ニュートンは生母の元から離れて、祖母に養育されることになり、幼くして両親を知らぬ子となった[1]。母親が再婚した理由のひとつは、ニュートンの養育費を得ることでもあったとされる[1]。ニュートンは母の再婚に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと恫喝さえしたという。後年のニュートンは、この一時の激情に駆られた発言を悔いて、実母とは付かず離れずの関係を保ちつつも、その晩年の世話をしたとされる。グランサムのキングズ・スクール
ニュートンの学才に気付いたのは養育した親類であった。1655年にニュートンはグランサムのグラマースクール(グランサム・キングズ・スクール(英語版))に入学することになった。この学校は自宅から7マイルも離れており、母の知り会いの薬剤師であるクラーク家に下宿した[1]。ニュートンはこの下宿先で薬学関係の蔵書に出会い、それらに興味を持つようになったとされる[1]。また、クラーク家の養女のストーリーと親友となり、ニュートンはストーリーと18歳で婚約に至った。ニュートンは法的な結婚はせず、終生独身のままであったが、ストーリーとは後年に至るまで親密な交際を続け、金銭的な援助も続けたとされる。
グラマースクール時代のニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。体が小さく内向的で目立たぬ子で、友人らのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年に喧嘩で勝ち、自信を持つようになったとされる[2][3]。
グラマースクールに通って2年が経ち14歳になったときに、先述の継父スミスが死去した。ニュートンの生母ハナ・アスキューは継父との3人の子らとともに、ウールスソープの家へと戻ってきた。母は、ニュートンの実父が遺した農園を営むことを考え、ニュートンに農作業を手伝わせようと、グラマースクールを退学させた[注 7]。ところがニュートンは農作業を放棄し、かつての下宿先であったクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中したとされる[1]。こういった経緯から、母はニュートンの気性が農業に向いていないと気付き、ニュートンの将来を親類や友人らと相談した。そして、彼らの助言から、ニュートンをケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ[注 8]で学ばせることを決めた。ニュートンは2年を経てグラマースクールに復学し、トリニティカレッジの入学試験のため聖書や算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ[1]。
トリニティ・カレッジ入学トリニティ・カレッジ
1661年にニュートンはトリニティ・カレッジに入学した[4]。当初はサブサイザー[注 9]とよばれる学生として入学したが、1か月後にはサイザー(英語版)となった。サイザーは、講師の小間使いとして給仕などの使い走りをする見返りに、授業料や食費の援助を受ける学生身分である[1]。一方でトリニティ・カレッジの大多数の学生はコモナーであり、彼らは自費で授業料を納める学生である。ニュートンは、自身のサイザーという身分や家柄等から、彼らとは打ち解けなかったという[1]。
当時の大学のカリキュラムはスコラ哲学、すなわち、古来からのアリストテレスらの学説に基づいたものであった。これに対しニュートンは、当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書を好んだとされる。数学分野では、エウクレイデスの『原論』やデカルトによる『幾何学 (La Geometrie)』のラテン語版の第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵 (Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術 (The Arithmetic of Infinitesimals[5])』などに興味を寄せ、自然哲学分野では、ケプラーの『屈折光学 (Dioptrice)』、ウォルター・チャールトン(英語版)の原子論哲学の入門書などを読んだとされる。恩師のアイザック・バロー。ニュートンを指導し、後に自身のルーカス教授職のポストをニュートンに譲った。
ニュートンの師のアイザック・バローはルーカス数学講座の初代教授[注 10]である。バローは、ニュートンの才能を高く評価し、庇護した。バローは時間や空間の絶対性を重要視するプラトニズムの数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローの後押しにより、1664年にニュートンはスカラー (学校)(英語版)となった[4]。これにより、学生として奨学金[注 11]を得られるようになった。バローによって才能を開花させたニュートンは、引力(重力)や二項級数[6]、対数の無限級数の研究を行い、微分法ひいては微分積分学の発展に貢献することになる。1665年にはニュートンはカレッジを卒業し、バチェラー (Bachelor of Arts)の学位を得た[1][4]。 学位を取得後もニュートンはケンブリッジ大学に残ったが、ロンドンではペストが大流行[注 12]し、大学も閉鎖された。こうして、1665年から1666年にかけて2度、当時20代前半[1]であったニュートンは、故郷のウールスソープへ疎開した。その結果として、ニュートンはカレッジでの雑事から解放され、すでに得ていた様々な着想について独りで自由にじっくり思索をめぐらせる時間を得た[1]。また、疎開前の1664年に奨学生の試験に合格して得た奨学金も、故郷で学問に専念するにあたり役立った[1]。
ペストの流行