一方でルーカス教授時代には、ニュートンは執筆活動を精力的に行った。彼の二大著書となる『光学』(1704年刊行)および『プリンキピア』としても知られる『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊)の執筆をした。ニュートンはプリンキピアを18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという[7]。
プリンキピア刊行からまもなく、王位に就いたジェームズ2世によるケンブリッジ大学への干渉があった。1686年のこれに対する法廷審理では、ニュートンはケンブリッジ大学の全権代表グループの一員として参加し、毅然として干渉をはねのける発言をした[1]。その2年後の1688年には、ニュートンは庶民院議員(下院議員)として大学より選出された[1][注 15]。しかし、議会で議員としてのニュートンの発言は「議長、窓を閉めてください」のみだったとされる[8]。 大著の執筆やロバート・フックと先取権争い、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的対立など[注 16]といった複数のできごとから、ニュートンは大学での学究生活に疲弊していた。ニュートンは当時下院議員でもあり、研究での疲弊から政治的な事柄へ関心をもつようになり、実務的な世界で地位を得ようと考えたとされる[1]。 ニュートンより19歳年下の教え子であるチャールズ・モンタギューは、若年ながら社交性に富み、立ち回りがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていた[1]。ニュートンはこのモンタギューに政治関連のポストを世話するように依頼した[1]。また、既に当時著名な哲学者のジョン・ロックにも同様の打診をしたとされる[1]。しかし、いずれもすぐに色良い返事がもらえたわけではなかった[1]。 精神的な疲労に加えて、このように政界進出の出鼻をくじかれたニュートンは、やがて精神に変調をきたすようになった。不眠や食欲減退を引き起こしたほか、被害妄想にも悩まされるなど、回復には時間を要したとされる。これらについて、福島章は統合失調症だったのではないかと指摘している[9]。この当時のニュートンの具体的な行動としては、ジョン・ロックへの書簡で「チャールズ・モンタギューは私を欺くようになった」との内容を認めたとされる[1]。また、2年ほど自宅に引き籠るようになったとも言われる[誰によって?]。これらについては、うつ病だったのではないかとの指摘や、母の死去[注 17]に伴うものとの指摘もある[1]。他方、ニュートンが好んで行っていた行動のひとつとして、錬金術においてしばしば重金属の「味見」をしたといわれる[誰によって?]。このために、一時的な精神不調に陥った可能性も指摘されている[誰によって?]。 以上のような壮年期のスランプ状態にあっても、ニュートンはなお学問を楽しみとしていた。当時、数学者のヨハン・ベルヌーイは、ヨーロッパ中に対して、難解ながら読者の興味を惹く数学の問題を新聞に出題していた。たとえば、「鉛直面上に2つの点があるとする。ひとつの物体が上の点から下の点まで重力のみで落下する時に、要する時間をもっとも短くするにはどのような道筋に沿って降下させればよいか?」という出題があった。これは1696年の出題で、現在では最速降下曲線と呼ばれる問題である。この問題を掲載した新聞は、翌年1月の夕方にニュートンのもとに到着した。この出題に目を通したニュートンは、今日変分法と呼ばれる新しい数学の手法を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに回答を作成し、これを匿名でベルヌーイに投稿したとされる。 上述のニュートンの打診を受けていたモンタギューはやがて財務大臣となり、1696年4月にモンタギューの紹介で[1]ニュートンは王立造幣局監事の職に就いた。1699年には、ニュートンは王立造幣局長官へと昇格した。モンタギューとしては、働きづめの恩師ニュートンに対して、研究から距離をおいて時間的、体力的に余裕の持てる地位や職を紹介したつもりであった[1]。しかし、ニュートンは、就任早々に通貨偽造人の逮捕し、これを皮切りに片っ端から組織の汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した[1]。 ニュートンは政治・行政の世界とは縁遠い大学教授であったが、王立造幣局長官として鮮やかな手並みを発揮した[1]。部下の捜査員に変装用の服を与えるなどして捜査を進めさせ、偽金製造シンジケートの親分ウィリアム・シャローナー
下院議員のニュートン
王立造幣局長官のニュートン1702年の肖像画
他方で、ニュートンは貨幣鋳造のために、貨幣の正確な重量やその測定基準を新たに制定した[10]。このときニュートンは、銀貨と金貨の相対価値 (金銀比価)を設定するにあたり、市場の銀の相場を見誤り、銀貨の貨幣価値を銀自体より低く定めてしまった(ニュートン比価)。これにより、銀貨が溶かされ銀の鋳塊が金貨と交換される事態を引き起こした。この結果として、銀貨が実質的に価値を損ない、イギリスは事実上の金本位制に移行した[注 18]。
なお、造幣局勤務時代にニュートンは、給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなりの金銭的余裕を得た[1]。