1668年には、ニュートン式望遠鏡を考案し第一号機を完成させた。後に改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、これはニュートンが会員に推薦されるにあたっての事由となった。 これらの成果から、師のバローはニュートンに自らのポストを譲ろうと打診した[1]。ニュートンは一度固辞したが結局はその申し出を受け、1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた[1]。ルーカス教授としての職務上の義務は、幾何学か算術、天文学、光学、地理学のいずれかについて学期ごとに10回ほど講義すること、および、週に2度の学生との会合に出席することのみであった[1]。ニュートンは自身の開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎて難解であったとされ、学生がひとりも講義に現れないということもしばしばだった[1]。トリニティカレッジ内のチャペルにあるニュートン像 一方でルーカス教授時代には、ニュートンは執筆活動を精力的に行った。彼の二大著書となる『光学』(1704年刊行)および『プリンキピア』としても知られる『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊)の執筆をした。ニュートンはプリンキピアを18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという[7]。 プリンキピア刊行からまもなく、王位に就いたジェームズ2世によるケンブリッジ大学への干渉があった。1686年のこれに対する法廷審理では、ニュートンはケンブリッジ大学の全権代表グループの一員として参加し、毅然として干渉をはねのける発言をした[1]。その2年後の1688年には、ニュートンは庶民院議員(下院議員)として大学より選出された[1][注 15]。しかし、議会で議員としてのニュートンの発言は「議長、窓を閉めてください」のみだったとされる[8]。 大著の執筆やロバート・フックと先取権争い、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的対立など[注 16]といった複数のできごとから、ニュートンは大学での学究生活に疲弊していた。ニュートンは当時下院議員でもあり、研究での疲弊から政治的な事柄へ関心をもつようになり、実務的な世界で地位を得ようと考えたとされる[1]。 ニュートンより19歳年下の教え子であるチャールズ・モンタギューは、若年ながら社交性に富み、立ち回りがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていた[1]。ニュートンはこのモンタギューに政治関連のポストを世話するように依頼した[1]。また、既に当時著名な哲学者のジョン・ロックにも同様の打診をしたとされる[1]。しかし、いずれもすぐに色良い返事がもらえたわけではなかった[1]。 精神的な疲労に加えて、このように政界進出の出鼻をくじかれたニュートンは、やがて精神に変調をきたすようになった。不眠や食欲減退を引き起こしたほか、被害妄想にも悩まされるなど、回復には時間を要したとされる。これらについて、福島章は統合失調症だったのではないかと指摘している[9]。この当時のニュートンの具体的な行動としては、ジョン・ロックへの書簡で「チャールズ・モンタギューは私を欺くようになった」との内容を認めたとされる[1]。また、2年ほど自宅に引き籠るようになったとも言われる[誰によって?]。
ルーカス教授職と著書刊行
下院議員のニュートン