ニュートンの学才に気付いたのは養育した親類であった。1655年にニュートンはグランサムのグラマースクール(グランサム・キングズ・スクール(英語版))に入学することになった。この学校は自宅から7マイルも離れており、母の知り会いの薬剤師であるクラーク家に下宿した[1]。ニュートンはこの下宿先で薬学関係の蔵書に出会い、それらに興味を持つようになったとされる[1]。また、クラーク家の養女のストーリーと親友となり、ニュートンはストーリーと18歳で婚約に至った。ニュートンは法的な結婚はせず、終生独身のままであったが、ストーリーとは後年に至るまで親密な交際を続け、金銭的な援助も続けたとされる。
グラマースクール時代のニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。体が小さく内向的で目立たぬ子で、友人らのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年に喧嘩で勝ち、自信を持つようになったとされる[2][3]。
グラマースクールに通って2年が経ち14歳になったときに、先述の継父スミスが死去した。ニュートンの生母ハナ・アスキューは継父との3人の子らとともに、ウールスソープの家へと戻ってきた。母は、ニュートンの実父が遺した農園を営むことを考え、ニュートンに農作業を手伝わせようと、グラマースクールを退学させた[注 7]。ところがニュートンは農作業を放棄し、かつての下宿先であったクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中したとされる[1]。こういった経緯から、母はニュートンの気性が農業に向いていないと気付き、ニュートンの将来を親類や友人らと相談した。そして、彼らの助言から、ニュートンをケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ[注 8]で学ばせることを決めた。ニュートンは2年を経てグラマースクールに復学し、トリニティカレッジの入学試験のため聖書や算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ[1]。
トリニティ・カレッジ入学トリニティ・カレッジ
1661年にニュートンはトリニティ・カレッジに入学した[4]。当初はサブサイザー[注 9]とよばれる学生として入学したが、1か月後にはサイザー(英語版)となった。サイザーは、講師の小間使いとして給仕などの使い走りをする見返りに、授業料や食費の援助を受ける学生身分である[1]。一方でトリニティ・カレッジの大多数の学生はコモナーであり、彼らは自費で授業料を納める学生である。ニュートンは、自身のサイザーという身分や家柄等から、彼らとは打ち解けなかったという[1]。
当時の大学のカリキュラムはスコラ哲学、すなわち、古来からのアリストテレスらの学説に基づいたものであった。これに対しニュートンは、当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書を好んだとされる。数学分野では、エウクレイデスの『原論』やデカルトによる『幾何学 (La Geometrie)』のラテン語版の第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵 (Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術 (The Arithmetic of Infinitesimals[5])』などに興味を寄せ、自然哲学分野では、ケプラーの『屈折光学 (Dioptrice)』、ウォルター・チャールトン(英語版)の原子論哲学の入門書などを読んだとされる。恩師のアイザック・バロー。ニュートンを指導し、後に自身のルーカス教授職のポストをニュートンに譲った。
ニュートンの師のアイザック・バローはルーカス数学講座の初代教授[注 10]である。