この株価上昇の期間に、ニュートンは南海会社の株式を一旦売却して利益確定した。しかし、南海会社の株価はさらに上昇し続け、まだまだ南海会社の株価は上がると見込んだニュートンは、南海会社の株を再度購入した。ところがその後、南海会社の株価はニュートンを含む人々の思惑・予想に反して大暴落した。結局ニュートンは、南海会社の株で7000ポンドの利益を出したが、その後の大暴落で2万ポンドの大損をしたのであった[1][注 21][11][10]。この株式相場で金銭的にも精神的にも深い大きな傷を負ったニュートンは次の言葉を残したとされる[12]。
「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない。」
?アイザック・ニュートン
この南海会社の株式相場では、多くの資金と投機が飛び交い、異常なマネーゲーム、狂乱相場となったことから、イギリスの株式市場の歴史の中でもっとも悪名高い南海泡沫事件として、今日知られている[注 22][13]。 科学の研究活動としては、ニュートンは造幣局に勤めてからは錬金術に没頭していた。ただし、これは現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究ではないとされる[注 23]。一方、神学の研究において、晩年のニュートンは『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著した。しかし、これはイングランド国教会の教義とは異なるため[注 24]、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)[1]。 1705年、自然哲学の業績に対して、ニュートンはアン女王からナイトの称号(サー)を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られた者は、ニュートンが最初である[1]。ウェストミンスター寺院内のニュートンの墓 称号授与から22年後の1727年3月にニュートンは死去し、国葬をもってウェストミンスター寺院に葬られた[1][14]。遺言状は遺されておらず、ニュートンの遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館となった[1]。 しばしば「ニュートンはガリレオが死んだ年に生まれた」と記述される[15][16]。このことの真偽には、主に当時はガリレオの没年がグレゴリオ暦で、ニュートンの生年がユリウス暦でそれぞれ記されたことに注意を払う必要がある[17][注 25]。以下の表の通り、ガリレオが没年は、グレゴリオ暦で1642年、ユリウス暦では1641年である。どちらの暦でも、ニュートンは、ガリレオの没後に必ず越年をはさんで一年弱の後に生まれている[18]。 ガレリオの死没日とニュートンの生誕日事項事項の発生日事項の発生地域当該地域で当時主に公用された暦法[19]
錬金術研究と聖書研究
晩年
ニュートンの生年とガリレオの没年について
ユリウス暦グレゴリオ暦
ガリレオの死没1641年12月29日1642年1月8日 フィレンツェ公国(イタリア)グレゴリオ暦
ニュートンの生誕 1642年12月25日1643年1月4日 イングランド王国(イギリス)ユリウス暦
業績
力学・天文学ニュートン自身が所有していた『自然哲学の数学的諸原理』初版。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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