アイザック・ニュートン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ニュートン[注 3]は、ユリウス暦1642年12月25日にイングランド東海岸の リンカンシャーの小都市グランサム郊外の寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース(英語版)[注 4]で生まれた[1]。父の名は同名のアイザック・ニュートンである[1]。母であるハナ・アスキューは、出産の3か月前に夫とは死別しており、自身の実家にて出産した[1]。ニュートンは未熟児であったとされ、産婆には「この子は長生きすまい」とさえ言われたという[1]

生前の実父は、ヨーマン独立自由農民)と貴族との中間的な身分[注 5]であり、郷士のような存在であった。農園を営み、37歳のときに近郊の農家の娘だったハナ・アスキューと結婚した。バーナバス・スミス(ニュートンの義父。後述)によると、実父アイザックは「粗野な変人」であったとされる。

ニュートンが3歳のとき、母ハナ・アスキューは近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚した[注 6]。このとき、ニュートンは生母の元から離れて、祖母に養育されることになり、幼くして両親を知らぬ子となった[1]。母親が再婚した理由のひとつは、ニュートンの養育費を得ることでもあったとされる[1]。ニュートンは母の再婚に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと恫喝さえしたという。後年のニュートンは、この一時の激情に駆られた発言を悔いて、実母とは付かず離れずの関係を保ちつつも、その晩年の世話をしたとされる。グランサムのキングズ・スクール

ニュートンの学才に気付いたのは養育した親類であった。1655年にニュートンはグランサムのグラマースクール(グランサム・キングズ・スクール(英語版))に入学することになった。この学校は自宅から7マイルも離れており、母の知り会いの薬剤師であるクラーク家に下宿した[1]。ニュートンはこの下宿先で薬学関係の蔵書に出会い、それらに興味を持つようになったとされる[1]。また、クラーク家の養女のストーリーと親友となり、ニュートンはストーリーと18歳で婚約に至った。ニュートンは法的な結婚はせず、終生独身のままであったが、ストーリーとは後年に至るまで親密な交際を続け、金銭的な援助も続けたとされる。

グラマースクール時代のニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車日時計水時計の製作などを行っていた。体が小さく内向的で目立たぬ子で、友人らのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年に喧嘩で勝ち、自信を持つようになったとされる[2][3]

グラマースクールに通って2年が経ち14歳になったときに、先述の継父スミスが死去した。ニュートンの生母ハナ・アスキューは継父との3人の子らとともに、ウールスソープの家へと戻ってきた。母は、ニュートンの実父が遺した農園を営むことを考え、ニュートンに農作業を手伝わせようと、グラマースクールを退学させた[注 7]。ところがニュートンは農作業を放棄し、かつての下宿先であったクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中したとされる[1]。こういった経緯から、母はニュートンの気性が農業に向いていないと気付き、ニュートンの将来を親類や友人らと相談した。そして、彼らの助言から、ニュートンをケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ[注 8]で学ばせることを決めた。ニュートンは2年を経てグラマースクールに復学し、トリニティカレッジの入学試験のため聖書算術ラテン語古代史初等幾何などを学んだ[1]
トリニティ・カレッジ入学トリニティ・カレッジ

1661年にニュートンはトリニティ・カレッジに入学した[4]。当初はサブサイザー[注 9]とよばれる学生として入学したが、1か月後にはサイザー(英語版)となった。サイザーは、講師の小間使いとして給仕などの使い走りをする見返りに、授業料や食費の援助を受ける学生身分である[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:170 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef