アイザック・ニュートン
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この結果として、銀貨が実質的に価値を損ない、イギリスは事実上の金本位制に移行した[注 18]

なお、造幣局勤務時代にニュートンは、給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなりの金銭的余裕を得た[1]
個人投資家のニュートン

ニュートンは株式投資も実践していた。ニュートンは長年にわたって手堅い投資を心がけ、その運用成績も好調だった。株式や国債などに分散された投資ポートフォリオは、1720年の年初時点でおよそ3万2000ポンド[注 19]に相当した[10]

この頃のイギリスでは株式市場が発達し、株式ブームが起こっていた。当時、特に南海会社は特に人気があった。イギリス政府が額面100ポンドで売り出した南海会社株は爆発的な人気を集めていた。時はやや遡るが、かつてニュートンは王立造幣局長官として、当時増大していたイギリス政府の公的債務の整理問題にも携わっていた。このとき、当時はまだ小さな業績不振の貿易会社に過ぎなかった南海会社を知った。当時の南海会社はまだ人々から注目されていなかったが、ニュートンは南海会社の事業内容に将来性を感じ、南海会社の設立[注 20]から間もない1712年6月に株式を購入していた[10]。やがて株式ブームの時期には、ニュートンは1720年までに南海会社株に1万ポンドの個人株式投資を行っていた。その後も南海会社の株価はニュートンの予想通りに大きく上昇し、8月には株価が1000ポンドを突破した。

この株価上昇の期間に、ニュートンは南海会社の株式を一旦売却して利益確定した。しかし、南海会社の株価はさらに上昇し続け、まだまだ南海会社の株価は上がると見込んだニュートンは、南海会社の株を再度購入した。ところがその後、南海会社の株価はニュートンを含む人々の思惑・予想に反して大暴落した。結局ニュートンは、南海会社の株で7000ポンドの利益を出したが、その後の大暴落で2万ポンドの大損をしたのであった[1][注 21][11][10]。この株式相場で金銭的にも精神的にも深い大きな傷を負ったニュートンは次の言葉を残したとされる[12]

「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない。」

?アイザック・ニュートン

この南海会社の株式相場では、多くの資金と投機が飛び交い、異常なマネーゲーム、狂乱相場となったことから、イギリスの株式市場の歴史の中でもっとも悪名高い南海泡沫事件として、今日知られている[注 22][13]
錬金術研究と聖書研究

科学の研究活動としては、ニュートンは造幣局に勤めてからは錬金術に没頭していた。ただし、これは現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究ではないとされる[注 23]。一方、神学の研究において、晩年のニュートンは『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著した。しかし、これはイングランド国教会の教義とは異なるため[注 24]、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)[1]
晩年

1705年、自然哲学の業績に対して、ニュートンはアン女王からナイト称号サー)を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られた者は、ニュートンが最初である[1]ウェストミンスター寺院内のニュートンの墓

称号授与から22年後の1727年3月にニュートンは死去し、国葬をもってウェストミンスター寺院に葬られた[1][14]。遺言状は遺されておらず、ニュートンの遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館となった[1]
ニュートンの生年とガリレオの没年について

しばしば「ニュートンはガリレオが死んだ年に生まれた」と記述される[15][16]


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