学位を取得後もニュートンはケンブリッジ大学に残ったが、ロンドンではペストが大流行[注 12]し、大学も閉鎖された。こうして、1665年から1666年にかけて2度、当時20代前半[1]であったニュートンは、故郷のウールスソープへ疎開した。その結果として、ニュートンはカレッジでの雑事から解放され、すでに得ていた様々な着想について独りで自由にじっくり思索をめぐらせる時間を得た[1]。また、疎開前の1664年に奨学生の試験に合格して得た奨学金も、故郷で学問に専念するにあたり役立った[1]。こうしてニュートンは、この疎開中に流率法(英語版
)[注 13]と彼が呼んだものや、プリズムでの分光の実験、万有引力の思索などに没頭できた。これらの成果はいずれもニュートンの大きな業績であるが、このペスト禍で疎開中の18か月間にそれらの基礎が築かれた[7]。また、「リンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついた」との逸話の出来事があったのはこの時期のことである(⇒#リンゴの逸話について)。1667年にペスト禍が終息したあと、ニュートンはケンブリッジ大学に戻った。その年の10月、同学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちる事故があった。また、別のフェロー1名が発狂した。これらの不幸からフェロー職に欠員が計3つ生じたため[1]、ニュートンは空席のフェロー職に就くことができ[4]、以後研究費を得られるようになった。同年には『無限級数の解析(原題:De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を執筆した(刊行は1671年)。また、論文『流率の級数について(原題:De methodis serierum et fluxionum)』を発表した[注 14]。1672年に王立協会のために作った6インチの反射望遠鏡(レプリカ)
1668年には、ニュートン式望遠鏡を考案し第一号機を完成させた。後に改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、これはニュートンが会員に推薦されるにあたっての事由となった。 これらの成果から、師のバローはニュートンに自らのポストを譲ろうと打診した[1]。ニュートンは一度固辞したが結局はその申し出を受け、1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた[1]。ルーカス教授としての職務上の義務は、幾何学か算術、天文学、光学、地理学のいずれかについて学期ごとに10回ほど講義すること、および、週に2度の学生との会合に出席することのみであった[1]。ニュートンは自身の開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎて難解であったとされ、学生がひとりも講義に現れないということもしばしばだった[1]。トリニティカレッジ内のチャペルにあるニュートン像 一方でルーカス教授時代には、ニュートンは執筆活動を精力的に行った。彼の二大著書となる『光学』(1704年刊行)および『プリンキピア』としても知られる『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊)の執筆をした。ニュートンはプリンキピアを18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという[7]。 プリンキピア刊行からまもなく、王位に就いたジェームズ2世によるケンブリッジ大学への干渉があった。1686年のこれに対する法廷審理では、ニュートンはケンブリッジ大学の全権代表グループの一員として参加し、毅然として干渉をはねのける発言をした[1]。その2年後の1688年には、ニュートンは庶民院議員(下院議員)として大学より選出された[1][注 15]。
ルーカス教授職と著書刊行