1661年にニュートンはトリニティ・カレッジに入学した[4]。当初はサブサイザー[注 9]とよばれる学生として入学したが、1か月後にはサイザー(英語版)となった。サイザーは、講師の小間使いとして給仕などの使い走りをする見返りに、授業料や食費の援助を受ける学生身分である[1]。一方でトリニティ・カレッジの大多数の学生はコモナーであり、彼らは自費で授業料を納める学生である。ニュートンは、自身のサイザーという身分や家柄等から、彼らとは打ち解けなかったという[1]。
当時の大学のカリキュラムはスコラ哲学、すなわち、古来からのアリストテレスらの学説に基づいたものであった。これに対しニュートンは、当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書を好んだとされる。数学分野では、エウクレイデスの『原論』やデカルトによる『幾何学 (La Geometrie)』のラテン語版の第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵 (Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術 (The Arithmetic of Infinitesimals[5])』などに興味を寄せ、自然哲学分野では、ケプラーの『屈折光学 (Dioptrice)』、ウォルター・チャールトン(英語版)の原子論哲学の入門書などを読んだとされる。恩師のアイザック・バロー。ニュートンを指導し、後に自身のルーカス教授職のポストをニュートンに譲った。
ニュートンの師のアイザック・バローはルーカス数学講座の初代教授[注 10]である。バローは、ニュートンの才能を高く評価し、庇護した。バローは時間や空間の絶対性を重要視するプラトニズムの数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローの後押しにより、1664年にニュートンはスカラー (学校)(英語版)となった[4]。これにより、学生として奨学金[注 11]を得られるようになった。バローによって才能を開花させたニュートンは、引力(重力)や二項級数[6]、対数の無限級数の研究を行い、微分法ひいては微分積分学の発展に貢献することになる。1665年にはニュートンはカレッジを卒業し、バチェラー (Bachelor of Arts)の学位を得た[1][4]。 学位を取得後もニュートンはケンブリッジ大学に残ったが、ロンドンではペストが大流行[注 12]し、大学も閉鎖された。こうして、1665年から1666年にかけて2度、当時20代前半[1]であったニュートンは、故郷のウールスソープへ疎開した。その結果として、ニュートンはカレッジでの雑事から解放され、すでに得ていた様々な着想について独りで自由にじっくり思索をめぐらせる時間を得た[1]。また、疎開前の1664年に奨学生の試験に合格して得た奨学金も、故郷で学問に専念するにあたり役立った[1]。こうしてニュートンは、この疎開中に流率法(英語版
ペストの流行