アイザック・アシモフ
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1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した[20]。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた[21]。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した[17]。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った[16]。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した[22]

1946年に大学院に復学し[23]1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部生化学の講師となった[17]。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった[24]。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており[23]、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年ダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった[25]。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった[26]

1955年准教授となり終身の在職権を得たが[27]、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた[28]。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた[27]。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった[29]1979年7月ボストン大学教授に昇任する[30]

1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが[31]、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ[32]。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医で後にSF作家となるジャネット・ジェプスン(英語版)と再婚した[33]。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。
執筆活動

アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり[34]、特に1957年のスプートニク・ショックがアシモフの執筆活動を後押しした。

科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man's Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ[35]、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞(英語版)を受賞した[36][37]。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した[38]。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した[39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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