アイオワ州
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1805年にゼブロン・パイクがアイオワ大半の地図を制作したが[12]、マディソン砦を建設したのは1808年になってからであり、アメリカ合衆国はようやくなんとか地域の軍事的支配を行うようになった[13]
米英戦争と不安定なアメリカ支配マディソン砦の平面図、1810年

マディソン砦はミシシッピ川上流域での交易の支配とアメリカ合衆国の存在誇示のために建設されたが、お粗末な設計によっており、まだイギリスと同盟しており地域の領有権を放棄してはいなかったソーク族やホーチャンク族には嫌われた[13][14]米英戦争中の1813年、マディソン砦はイギリスに支援されたインディアンに落とされ、ウィスコンシンのプレーリードゥシェンにあったシェルビー砦もイギリス軍に落とされた。ソーク族のブラック・ホーク(英語版)酋長がマディソン砦の包囲戦に加わった[15][16]

米英戦争の終戦後、アメリカ合衆国はイリノイにアームストロング砦、ミネソタにスネリング砦、ネブラスカにアトキンソン砦を構築して地域支配を取り戻した[17]
インディアンの排除(1814年 - 1832年)アイオワのインディアン領土獲得の図

アメリカ合衆国はミシシッピ川東岸への入植を奨励し、インディアンの西方への移住を進めた。毛皮と鉛の交易は続いていたが、疫病とインディアンの強制移住によってその文化と経済を破壊していった。1804年にソーク族の酋長カシュカメとウィリアム・ハリソンの間に結ばれたイリノイ領土の大半をアメリカ合衆国に譲渡する条約は、多くのソーク族を怒らせ、1832年のブラック・ホーク戦争に繋がった。蜂起に対する懲罰として、またより大きな開拓戦略の一部として、その後の条約でアイオワから全てのインディアンを追い出すように図られた。

ソーク族とメスクワキ族は、1832年にミシシッピ川流域から、1843年にアイオワ川流域から、さらに1846年にはアイオワ全体から追い出された。メスクワキ族の多くは後にアイオワに戻ってきてタマ近くに落ち着いた。メスクワキ族の集落は今日も残っている。1856年、アイオワ州議会は、メスクワキ族が土地を購入することを認める前例のない法を成立させた。通常のインディアンにそのようなことを認めることは無かった。ホーチャンク族は1850年にアイオワから追い出され、ダコタ族は1850年代後半に排除された。現在のカウンシルブラフス市周辺のアイオワ州西部は、ポタワトミ族など他の部族が西方に移動するための中継点として使われた。
アメリカ人による開拓と州昇格(1832年 - 1860年)アイオワ準州章

アイオワに公式にアメリカ合衆国の開拓者が入ったのは1833年だった[18]。彼等は主に家族を連れてオハイオ州ペンシルベニア州ニューヨーク州インディアナ州ケンタッキー州バージニア州などから移ってきた[18]ミズーリ準州の一地区となったアイオワは、以後、ミシガン準州ウィスコンシン準州を経て、1838年7月4日、アメリカ合衆国議会がアイオワ準州を設立した。マーティン・ヴァン・ビューレン大統領がロバート・ルーカスを準州知事に指名した。当時のアイオワは22の郡があり、人口23,242人だった[19]

準州になるのとほとんど同時に州昇格を求める声が興った。1846年12月28日、ジェームズ・ポーク大統領がアイオワの編入法に署名して、アイオワは合衆国29番目の州に昇格した。この昇格と同じころに境界論争も解決され、その領土はインディアンから購入したものが大半だった。アイオワ州は発展計画に取りかかり、若いフロンティアの州の肥沃な農業用地、素晴らしい市民、自由で開放的な社会および良い政府を宣伝して、開拓者と投資家を惹き付ける組織的な運動を行った[20]

アイオワ州では昔から州祭や郡祭が行われている。第1回と第2回のアイオワ州祭はフェアフィールドのより開発の進んだ州東部で開催された。第1回は1854年10月25日から27日に開催され、費用は約323ドルだった。その後会場は州中央部に近付いていき、1886年からは州都デモインで開催されるようになった。1898年は米西戦争が起こり、ネブラスカ州オマハでトランス・ミシシッピ博覧会(英語版)が開催されたので、州祭の開催は見送られたが、これ以外は毎年続いていた。さらに第二次世界大戦の1942年から1945年にも中断された[21]
南北戦争(1861年 - 1865年)

アイオワは、1860年大統領選挙ではエイブラハム・リンカーンを強く推し、南北戦争でも北軍を支持した。その一方で、南部出身の開拓者やカトリック教徒の中には「カッパーヘッド(英語版)」(アメリカマムシ)と呼ばれた強い反戦の動きがあった。州内で戦闘は無かったが、クロトンからデモイン川対岸のミズーリ州アセンズでは、1861年に戦闘があり、砲弾が州内に着地した。アイオワ州からは多くの食料が北軍や東部の都市に送られた。アイオワ州が北軍を支持したのは、戦時に知事を務めたサミュエル・カークウッドの功績によるとされている。当時の人口675,000人から約116,000人が軍務に就いた。南北を問わず他州よりも大きな比率で志願兵となり、75,000人が兵役に就いて、南軍アポマトックスで降伏するまでに、その6分の1が戦死した[22]

多くの兵はミシシッピ川流域戦線や南部での大きな作戦で戦った[23]。ミズーリ州でのウィルソンズ・クリークの戦いアーカンソー州でのピーリッジの戦いヘンリー砦ドネルソン砦シャイローチャタヌーガチカマウガ、ミッショナリーリッジ、ロスビルギャップ、さらにはビックスバーグイウカコリンスと戦いが続いた。バージニア州ではポトマック軍に入り、シェナンドー・バレーではフィリップ・シェリダン将軍の下で戦った。多くの兵がアンダーソンビルで戦死し、埋葬された。ナサニエル・バンクス将軍が率いたレッド川方面作戦にも参加した。アイオワ州出身の27人の兵士が、アメリカ合衆国議会の贈る最高の軍事勲章である名誉勲章を贈られ、南北戦争では初めてのものだった[24]。アイオワ州からはグレンビル・メレン・ドッジサミュエル・R・カーティス、フランシス・J・ヘロン、フレデリック・スティールといった4人の少将やその他の准将を輩出し、戦後は彼等が州内や国内で傑出した存在になった[22]
農業の発展(1865年 - 1930年)1875年のアイオワ州農園

南北戦争後、アイオワ州の人口は劇的に増加した。1860年に674,913人だったのが、1870年には1,194,020人となった。


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