大和銀行、あさひ銀行合併前の2003年(平成15年)3月に、埼玉県内の旧あさひ銀行の店舗は埼玉りそな銀行として分離され、さいたま営業部(埼玉銀行本店→協和埼玉銀行浦和営業部→あさひ銀行浦和営業部→あさひ銀行さいたま営業部)については、埼玉りそな銀行のさいたま営業部(本店)となっている。八重洲に所在した旧埼玉銀東京営業部は、りそな銀東京中央支店として現在も存続しているが、現在は日本橋に移転し、空中店舗となっている。
旧奈良銀店舗については、その後、桜川東支店(旧大阪支店)が2006年(平成18年)6月19日付で近接の桜川支店に統合されたが、それ以外の廃止予定は2007年(平成19年)に入るまでなかった。 2005年12月まではりそな銀行 (開始当初は大和銀であったが、あさひ銀との合併により2003年3月に行名改称)に販売業務を委託し運営されていた。大和銀行からノウハウを学ぶためである。実際の売りさばき管理業務は日本スポーツ振興くじ株式会社に再委託されていた[4]。 野村徳七によって大阪野村銀行として創立(昭和に入り野村銀行と改称)、野村財閥の中核銀行として金融激戦地帯である大阪市に本拠地を置いた。戦後財閥解体により野村銀行から商号変更し、大和銀行となる。旧大和銀行は在阪三大都市銀行の一角(残り2つは三和銀行・住友銀行)であった。 (旧安田銀行の富士銀行への商号変更も同様の経緯。住友銀行は財閥解体により大阪銀行と商号を変えるが、その後住友銀行に戻している。) 信託部門併営の唯一の都市銀行であり、信託機能のツール多様性から、大蔵省から「他の都市銀行と同じスタートラインにない。」とみなされ、他の都市銀行のような店舗展開が認められなかった(都市銀行:多店舗展開、信託銀行:少店舗展開)。 徳七の「自主独往」の精神に基づき、どの銀行とも合併をせず交わらなかったことから、都市銀行の規模としては北海道拓殖銀行に次いで下から2番目の規模であった。しかしながら、信託部門は好調であり、年金信託受託残高、遺言信託などは全信託銀行中トップであった。 1995年(平成7年)に同行ニューヨーク支店において、いわゆる大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件が発覚。当時としては、邦銀最大の店舗網を有していたアメリカ合衆国から撤退を余儀なくされたうえ、巨額の罰金も課せられた。この結果、米国内の店舗を住友銀行に譲渡する形で撤退。それと前後して同行との合併が日本経済新聞で報道された。 これにより大和プルダニア銀行(現在のりそなプルダニア銀行)と数ヶ所の駐在員事務所を除いて、国際業務から撤退した。国際金融市場の中心地であるニューヨークからの追放は、当時純利益の3割を米国市場から得ていた同行にとっては、極めて大きな痛手となった。 大和銀行はこのような状況を背にして、総花的経営を見直し、筋肉質な経営基盤の構築に邁進、個人や中小企業を主要な取引対象とし親密な地方銀行をグループ内に取り込む「スーパーリージョナルバンク」構想を打ち出し難局の打開に取り組むこととなった。 先述したように、大阪府の指定金融機関を単独で受託している他、大阪府内の自治体の多くでも指定金融機関を受け持っている[5]。「大和銀行」を参照 首都圏の地方銀行との合併を模索する旧埼玉銀行派閥と、他の上位・中位都銀との合併を模索する旧協和銀行派閥の対立が深刻化していたほか、バブル期の拡大戦略が裏目に出て、多額の不良債権を生みだしていた。2001年(平成13年)5月末に海外拠点を東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)へ譲渡することで合意するなどして、リストラの加速化が進んだ。また、旧埼玉銀行→旧あさひ銀行が指定金融機関の指定を受けていた流れから、りそな銀行が小平市、東村山市、清瀬市、東大和市、武蔵村山市、青梅市、あきる野市など多摩地区の一部市の指定金融機関となっている。「あさひ銀行」を参照 2001年(平成13年)12月、大和銀行は同行の親密地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により金融持株会社大和銀ホールディングスを設立。各行はその傘下に入りした。同時に、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設した大和銀信託銀行に分割した。続いて2002年(平成14年)3月には、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。そして、2003年(平成15年)3月には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を埼玉りそな銀行に会社分割し、残ったあさひ銀行は大和銀行と合併する形でりそな銀行が誕生した[6]。 みずほ銀行とみずほコーポレート銀行に続き、りそな銀行と埼玉りそな銀行は、世界的に見ても例の少ない合併分割による経営統合を行った。これは、大阪に本店を置く大和銀行にあさひ銀行が吸収されることで、埼玉県内において圧倒的な規模を誇るあさひ銀行の収益基盤が縮小することや、経営方針変更等による地域経済への影響、危惧を考慮し地域に対するコミットメントを明らかにしたものであると言われる。同時に、合併分割によって合併差益による自己資本の増強効果があり、悪化する経営を一時的に救う効果があった。しかし、このような複雑な経営統合方法は後述するシステム問題を含め、スケールメリットを阻害する要因となり、現在もなお経営形態の見直しが議論されている[7][8]。 発足直後の2003年(平成15年)4月22日、同行の監査を担当する監査法人のうち、合併前の決算を審査するため、新日本監査法人と共同監査を行っていた朝日監査法人(現在の有限責任あずさ監査法人)が、繰延税金資産の取扱をめぐり同行の共同監査を辞退し、決算監査が大幅に遅延する異常事態となった。 残った新日本監査法人は、5月に入り繰延税金資産組み入れの前提となる将来の収益性を疑問視し、りそな銀行の主張する他の都市銀行と同じ繰延税金資産5年分を否定して、3年分の組み入れしか認めない方針を明らかにした。 この判断に基づくと、同行の自己資本比率は、国内基準である4%を下回る、2%台に転落する可能性が出た。そのため5月17日に至り、政府に対して預金保険法第102条第1項第1号に基づく資本注入(第1号処置)を申請した。同日緊急招集された政府・日本銀行による金融危機対応会議において、同行の申請を認め、資本注入並びに同行に対する早期是正措置・業務改善命令が発動された[9]。 政府による、総額1兆9660億円の公的資金注入(正確には預金保険機構による株式取得)は[10]、従来の優先株による無議決権資本注入に加え、額の巨額さや経営再建への影響力を勘案された結果、普通株での資本注入が行われたために、預金保険機構の持ち株の比率が上がり、一時りそな銀行は事実上預金保険機構が筆頭株主となる異常事態が発生、これを実質国有化と呼んでいる。 この実質国有化に関して、当時、竹中平蔵金融担当大臣は、都市銀行であっても区別せず破綻させる旨を事あるごとに発言[11]していた。 また、この破綻寸前のりそな銀行の経営状況を受け、当時、市場ではりそなホールディングス株の投売りが行われ、株価は暴落していた[11]。そのような中、りそなの株価暴落の過程で、株価の反発を見込み、りそな株を買い占めていたのが外資系投資ファンドだった[11]。結局、この方針転換による公的資金注入の発表を受け、りそな株の価額は急騰[11]。
スポーツ振興くじ(toto)
経営統合までの経緯
大和銀行
あさひ銀行
りそなグループの誕生から実質国有化へ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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