やなせたかし
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弟は長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。

後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に進む[4]。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し[4]、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に進学した[4]。同期生に風間完がいる。
戦争体験日出生台演習場にて[4]

官立旧制東京高等工芸学校図案科(現:千葉大学工学部デザイン学科)1939年昭和14年)卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職[4]。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号西部軍管区隷下部隊を意味する西部第73部隊[注釈 3]。)へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。

補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという[2]。最終階級は陸軍軍曹大東亜戦争では弟が戦死している[注釈 4]
漫画家への道

終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年(昭和21年)に高知新聞社に入社。『月刊高知』編集部[4]で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。

1947年(昭和22年)に上京し小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める[4]。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。1953年(昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる[7]。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。

三越時代、やなせは包装紙のデザインを猪熊弦一郎に依頼している。猪熊のデザインにやなせのレタリングで「mitsukoshi」のロゴが入れられた包装紙のデザインは、「華ひらく」の名で半世紀以上使われている[8]
困ったときのやなせさん

1953年(昭和28年)に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年(昭和39年)にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり[4]、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年(昭和42年)には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの[4]、1960年代後半は本当にきつかったという。

漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる[9]」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。

1960年(昭和35年)、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961年に『手のひらを太陽に』を作詞。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲となっている。


1969年(昭和44年)、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れた。同作がヒットしたお礼として、手塚はポケットマネーで、やなせが1967年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞[4]。同作はやなせの代表作のひとつとなっている。

詩人・絵本作家への道

1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年(昭和41年)9月にやなせが処女詩集『愛する歌』[4]を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場[10][11]。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼアンチヒーロー)として作られた大人向けの作品である。

1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど[4][12]、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。同年に1969年発表したアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表[10][11]。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けた。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった。

1988年(昭和63年)には、テレビアニメそれいけ!アンパンマン』の放映が日本テレビで開始される。


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