みずほ信託銀行
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安田信託側は店外まで列が並ぶと印象が悪くなることを懸念し、行内の会議室等へ客をすべて入れ[4]、各マスコミもこの「取り付け騒ぎ」を報道するのを控えた[5]

山一證券の自主廃業が伝えられた直後当時の安田信託社長であった立川雅美は、安田生命保険社長であった大島雄次と連絡を取って支援を要請した。要請を受けた大島は、安田信託が倒れれば安田生命富士銀行にも累が及び、最悪の場合金融恐慌を招きかねないとして要請を快諾。富士銀行頭取であった山本惠朗と連絡を取り、さらには芙蓉グループ首脳にも声をかけ、安田信託救済として500億円の第三者割当増資を引き受ける資本増強策をまとめた[6]

同年11月26日、安田信託は「97年度中間決算において、942億円の不良債権を処理した結果、経常損益が755億円の赤字となった」と発表した。この発表と同じ日、米国の格付会社であるスタンダード&プアーズ (S&P) が、安田信託銀の長期債格付を「投機的格付」に引き下げると発表した。S&Pの発表を受け安田信託は、S&Pの発表は自己資本増強策が織り込まれておらず、経営実態を反映したものではないと反論を試みた。しかし東京株式市場では翌日、安田信託の株価は一時的に額面の50円を割り込むまでに下落した[6][7]。この時分には、「安田信託は債務超過状態に陥っている。富士銀もとても支えきれず連鎖破綻する」「富士銀には1兆円規模の不良債権飛ばしがある」との風説が流布され、株式市場では安田信託のみならず、富士銀自身の経営不安説が「市場」を駆け巡り、バブル期ピークには4,200円を超えた富士銀の株価も400円台まで下落した[8]

こうした事態を受けて1998年1月、山本は安田信託を全面的に支援することを決断し[6]、同年3月、前年11月に発表した第三者割当増資に500億円を上乗せして、芙蓉グループ主要5社が合計1,000億円(富士銀500億円、安田生命250億円、安田火災海上保険150億円、丸紅大成建設が各50億円)の第三者割当増資を引き受けた。この結果、富士銀の持株比率は20%弱となり、安田信託の筆頭株主となった。このほか同時期に、安田信託銀は永久劣後債による1500億円の公的資金注入を受けた[9]。また同年4月、富士銀は安田信託からの要請に応えて笠井和彦副頭取を顧問として派遣した[注釈 1]

以後、安田信託は、国内外貸出資産の圧縮、国内店舗の統廃合、海外での貸出およびディーリング業務からの撤退、大幅な人員削減などからなる大規模なリストラを推進した上で、スリムで特色のある専業信託を目指すとした[9]。芙蓉グループ企業からの支援によって、安田信託の経営は一応の小康を取り戻したが、依然として財務内容が脆弱で市場からの不信感も払拭しえず、銀行部門とは本来無縁の年金などの信託財産にも解約の動きは広がった。そこで1998年4月、新たに社長に就任した木南隆彦は信託部門を分離した上で、信用力の高い金融機関から出資を仰ぐ構想を練り、外資系証券会社と交渉を始めるが、条件で折り合いがつかず頓挫した。

その折に親密な信託銀行を有しない第一勧業銀行頭取の杉田力之から、安田信託の信託部門を引き受けたいとの吉報がもたらされた[6]。同年11月6日、富士銀、第一勧銀、安田信託銀は第一勧銀と富士銀の信託子会社(富士信託銀行と第一勧業信託銀行)の合併と、合併で誕生する新信託銀行に対し、安田信託の財産管理部門を営業譲渡することで合意したと発表した。これに基づき、1999年4月1日付で富士信託と第一勧業信託が合併し、新信託銀行である第一勧業富士信託銀行(DKFTB)が発足。同年10月1日には、DKFTBに安田信託から財産管理部門の運営ノウハウ、人員等の営業譲渡が完遂され、DKFTBは日本初の法人特化型の信託銀行として本格的に営業を開始した[11]

また信託部門を分離した後の安田信託は自主再建の道を探り、1999年3月期に公的資金を2千から3千億円程度で受け入れる方向で調整が開始されるが、株式含み損を考慮すると安田信託は実質債務超過、申請しても却下される可能性があると、当時新たに発足した金融監督庁から通告された。通告を受け木南は「万一却下された場合は国有化されてしまう。それを避けるには、富士銀に公的資金を申請してもらった上で第三者割当増資を引き受けてもらう間接注入しか生きながらえる術はない」と判断し、自主再建を断念した[6]。1999年3月、富士銀は安田信託分を含む総額1兆円の公的資金を預金保険機構に申請。そのうち3000億円で安田信託の第三者割当増資を引き受けた。これによって富士銀の安田信託の持株比率は約56%まで上昇し、安田信託は富士銀の連結子会社とされた[12][13]

この安田信託の救済策を巡り、富士銀と第一勧銀の関係は親密となったことが、みずほFG成立の契機となった。

2000年9月29日、第一勧銀、富士銀、日本興業銀行の3行が、株式移転によりみずほホールディングスを設立。同年10月1日に興銀傘下の興銀信託銀行をDKFTBが吸収した上で(旧)みずほ信託銀行(旧:みずほTB)として発足した[14]。一方、安田信託はみずほアセット信託銀行(みずほAT)と商号変更した。

当初は信託2行体制で、旧みずほTBがホールセールを、みずほATがリテールを担う計画であったが、「さらなる効率化」を模索して再び2行は合併。2003年3月12日、上場維持を理由として、みずほATを存続会社として現在のみずほ信託銀行が発足した[15]2011年9月1日、みずほ信託銀は株式交換によってみずほFGの完全子会社とされた[16]2012年から2013年の時点では、みずほ銀との事業統合も検討されていた[17][18]

2015年3月27日、同じグループ傘下であるみずほ投信投資顧問(MHAM)、新光投信、みずほ信託銀(TB)運用部門の統合に向けた準備を開始すると発表した。またこれにみずほFGと第一生命の合弁であるDIAMアセットマネジメント(DIAM)も併せて統合を視野に検討が進めることも明らかとされ[19][20]、同9月30日、2016年度上期中にTBの運用部門、DIAM、MHAM、新光投信を統合することで基本合意したと正式に発表した[21][22]。2016年10月1日付で経営統合が実施され、DIAMアセットマネジメントから商号変更したアセットマネジメントOne株式会社に資産運用機能が集約された。同社の本社は、鉄鋼ビルディング内に設置された[23]

本社は東京都中央区八重洲一丁目2番1号の「新呉服橋ビルディング」に置いていたが、2020年11月6日、東京都千代田区丸の内一丁目3番3号に東京駅直結の「みずほ丸の内タワー」が竣工(隣接する商業施設棟「丸の内テラス」は同年11月5日開業)[24]。これに伴い同年11月6日、みずほFGはグループ各社の各社の本部機能を同ビルへ集約することを発表[25]2021年3月22日にみずほ信託銀行は、同年11月22日に本社を移転すると発表した[26]。旧本店所在地では東京建物による八重洲一丁目北地区市街地再開発事業が予定されており(2025年度着工予定)、旧本店建物は解体される予定である。
沿革

1925年大正14年)5月9日 - 共済信託株式会社設立。当時の本店は大阪に所在。

1926年(大正15年)2月12日 - 共済信託株式会社が安田信託株式会社へ商号変更。

1933年昭和8年)2月11日 - 本店を東京府へ移転。


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