ますだおかだ
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1996年、「ボキャブラブーム」や「吉本2丁目芸人ブーム」に挟まれ、東京移転や吉本興業移籍さえ真剣に考え始めた頃、ちょうど同時期にスタートした『爆笑オンエアバトル』(NHK)に参戦。正統派漫才を武器に連勝を重ねていき、様々な記録を残すなど活躍した(後述)。2003年に同番組を卒業。

2002年、本格的に東京進出。同年12月に開催された「M-1グランプリ2002」では、ラストイヤーとなる結成10年目で優勝を果たした(後述)。

2006年4月から2007年3月まで『ますだおかだのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)のレギュラーパーソナリティーを務めた。

これ以前にも、1994年4月8日、超若手の時代に特別番組としてオールナイトニッポンの2部(27:00 - 29:00)を担当し、当番組のプロデューサーに「いいね! ますだおかだ! 秋から2部のレギュラーパーソナリティをやろうか!」と言われ、本来ならばそれが初の東京でのレギュラー番組の仕事となるはずであった。ところが、プロデューサーが人事異動となり、その時はオールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティを逃している。さらに、1998年ごろにも特番として担当した際にもプロデューサーから「4月からやろうか」と言われたが、またもプロデューサーの人事異動によりレギュラーを逃しており、2006年4月にようやく念願のオールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティーを務めることになった。


2009年からはそれぞれが単独で情報番組の司会を担当しているため、コンビでのテレビ出演が減少している。

2013年にコンビ結成20周年を迎え、12月14日には『ますだおかだコンビ結成20周年記念特番 漫才のキセキ』(関西テレビ)が放送された[2][3]

2016年2月29日、「 ⇒よしもと砦の戦い?松竹芸能軍の来襲?」(吉本新喜劇の本拠地・なんばグランド花月での特別公演)に、「松竹芸能軍」のメンバーとして出演した。

現在は主にテレビ出演であるが、隔月ペースで漫才ライブ(漫才セブン)を東京(松竹芸能新宿角座)と大阪(松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座)で行い新ネタを披露し続け、年に数回のネタ番組にも出演している。

芸風

主なネタは正統派漫才。増田の
毒舌を含んだボケに、岡田がツッコむという芸風。練りこんだネタがある一方で、時事ネタを巧みに織り込む柔軟性も持ち合わせる。逆に、岡田にボケさせてその寒いボケに増田が冷淡なツッコミをする芸風もある。

どーだ!ますだおかだ』(MBSラジオ)によると、漫才を選んだ理由はデビュー当時若手芸人達の間ではコントが全盛であったため、あえて漫才を選択する事で目立つのが目的であったとのこと。

ネタ作りは主に増田が担当する。岡田もネタ作りの場にいるが、増田がネタを書いている間、ずっとスポーツ新聞を読んでいるという。ただし、岡田の方が博学なので、ネタ中のフレーズなどの相談を受けたりしている[4]

稀にコントも行うことがあり、2003年1月(M-1グランプリ王者になった直後)の新年番組やエンタの神様では、「日本語を台湾語に面白く訳したコント」を披露したことがある。

コンビ名

コンビ名がひらがな表記である理由は、既に活躍していた名前をそのままコンビ名にした若手芸人の
矢野・兵動(漢字表記)やトクトミトコナミ(カタカナ表記)との差別化を図るため。初舞台のコンビ名は、漢字の「岡田・増田」であった。コンビ名を「おかだますだ」にしなかった理由は「岡田眞澄と混同されるから」とされる。

2人がかつて出演していた『金曜かきこみTV』(NHK教育テレビ)では、お笑い掲示板の管理人B&S(ビー・アンド・エス)として出演(番組開始から2005年3月までは、「ボケル・スベル」として出演)していた。2004年9月10日放送回では、同番組の特別企画として「青空プレタポルテ」名義で『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に出場した事もあった(重量は417KB)。

エピソード
爆笑オンエアバトル

かつて放送されていた
お笑い番組『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に放送開始当初から出演しており、様々な記録(後述)を残して活躍した。番組初期を代表するコンビとして挙げられる事も多い。

初めての出演は1999年5月1日放送回(番組第6回)。初挑戦ながら491KBを獲得し1位通過を果たした。1999年7月10日放送回(大阪収録)には出場3回目にして早くもオーバー500(508KB)を記録した。その後も番組を代表する常連コンビとして、正統派漫才を武器にオンエアを勝ち取り連勝を重ねていった。また、後述のようにパーフェクトを達成するなど高得点を叩き出す事も多かった(オーバー500獲得回数は7回・歴代4位の記録)。

出場5回目となる1999年11月13日放送回(大阪収録)にて545KBを獲得し、番組史上初となるパーフェクト(満点)[注 2] を達成した。同時に通常回での番組最高KBも叩き出した事となった。この満点獲得という大記録はますだおかだのコンビとしての実力の高さをより一層際立たせるものとなった[注 3]

この1週間前の放送では陣内智則が当時の番組最高KBである537KBを獲得しており、陣内は1週間で記録を塗り替えられる事となった(なお、陣内が出場したこの回も大阪収録である)。

同番組でパーフェクトを達成した芸人は、ますだおかだ、タイムマシーン3号上々軍団の3組だけとなっている。更にますだおかだ以降、タイムマシーン3号が2005年に記録するまでは約6年間パーフェクトを達成する芸人は出てこなかった。なお、出場5回目でのパーフェクト達成は3組の中でも最短の記録となっている。

2001年6月2日放送回(大阪収録)ではパーフェクトまであとボール1個に迫る541KBを記録した事もある。この為ますだおかだは番組内で545KBと541KBの両方を記録した経験がある唯一の芸人となっている。

パーフェクト達成回は後に発売された公式ビデオ(後にDVDも発売)「爆笑オンエアバトル ますだおかだ」に「545KBパーフェクト漫才」という題名で収録されている。


M-1優勝後の2003年2月8日放送回に出場してオンエアを獲得(417KB・4位)し、17連勝(全勝)を達成して当時の番組新記録[注 4] を樹立した(なお、同回で番組を卒業)。その後、タカアンドトシが2006年11月3日放送回にて18連勝(全勝)を達成して番組記録を更新、その後更に流れ星とタイムマシーン3号が現在の番組記録である20連勝を達成したため[注 5]、ますだおかだの記録は歴代4位[注 6] となっている。同番組のゴールドバトラーにも認定されている[注 7]

大阪収録に出場する事が多く(出場17回中5回が大阪収録だった)、また出場した回全てにおいてオーバー500を記録するなど無類の強さを誇っていた(初のオーバー500と後述のパーフェクトを達成した回も大阪収録である)。また、オーバー500を7回達成しているが、その内5回は大阪収録である(残りの2回は東京と佐賀であり、どちらも2002年度で達成している)。

上記の通り17連勝という記録を達成しているが、チャンピオン大会には2回だけ(第2回・第3回大会)しか出場しておらず、チャンピオン経験も1度も無かった。2001年度・2002年度にはどちらの年も年間3勝目までは達成しているものの、何故かチャンピオン大会出場最低条件である年間4勝目は獲得しておらずいずれも出場は逃している[注 8]。なお、10連勝以上を達成している芸人の中で第4回チャンピオン大会[注 9] 以降に出場していないのはますだおかだとツインカム(解散)のみとなっている。

2008年の番組公式ホームページ内の『オンバト名勝負百選』というコーナーで「爆笑オンエアバトル初期の立役者といえば、漫才のますだおかだとコントのラーメンズと言える」と番組プロデューサーから評され、最終回ではこの2組が「爆笑オンエアバトルのレジェンド」と紹介された[注 10]

番組卒業後、増田は自身のブログの2009年3月29日付の日記において「この番組がなければ今のますだおかだはなかったと思う。本当に感謝してるし愛着も今なおある。その後抜かされた連勝記録を今からでも抜きに行きたいくらいに…」とコメントしている[注 11][5]

M-1グランプリ
2001年


同事務所の
アメリカザリガニと共に決勝進出。特別審査員の合計得点では中川家に次ぐ高得点を記録したものの、この年のみに導入されていた一般審査員[注 12]による採点は、大半のコンビにおいて特定の会場からの得点が低い[注 13]など公平性に欠ける部分があり、ますだおかだもその影響を強く受けてしまった。結果、この時点で暫定2位[注 14]だったアメリカザリガニに敗れ、最終的に4位に終わった。

2002年


結成10年目でラストイヤーであったため、今大会が最後のチャンスだった[注 15]。決勝1回戦では2番目に登場。審査員7名中4名から最高評点を獲得し、2位通過で最終決戦進出を決める。

最終決戦では抽選により3番目に登場し、大トリを飾る。漫才冒頭の自己紹介の際に、増田が皮肉を込めて「吉本興業のますだおかだです!」と叫んだ。
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