人肉食について
松原新一は「泰淳は人肉を喰うか喰わないかによって、善悪の区別や人間的と非人間的との区別といった限界を決めることには意味がない、というような単純な結論を引き出してきているわけではない。むしろ、武田泰淳は、人間存在にかかわるそのようななんらかの懐疑的判断をくだしがたいような、深い晦冥の淵へとわたしたちをひきこんでゆくのである。」と述べている[13]。
川西政明は「大岡昇平のように「結局、われわれは人間の肉を食ってもいいのか、悪いのか」といった善悪の次元に泰淳は立っていなかった。」と述べ、武田が人肉食の善悪を問うているわけではないと指摘している[15]。
光の輪について
小笠原克は、八蔵が西川の首のうしろに光の輪を見たシーンについて、「喰わなければ死ぬ、だが喰わぬ、だから俺は死ぬのだという、最初から〈生〉を放棄した八蔵の末期の目に、〈法〉=人倫は美しく純粋に輝く。」と述べている[16]。
山城むつみは「或る者の罪を表示するためにその徴として首のうしろに光の輪を描くというのは、かりにそれが逆説的なものだとしても、ずいぶん安易なやり方ではないか。あの武田がそんな安手のことをしたとは思えない」と述べ、「光の輪=人肉を喰った者の証」という解釈を批判している[17]。
アイヌについて
鎌田哲哉は、この作品は「アイヌ語学者M」(=知里真志保)と「私」の内的討論だと考察し、「Mの怒りとその可視的な表現との間の言葉の空白を示し、その固有の問いを正確に提出するためにこの小説は書かれたのである」と述べている[18]。
横道仁志は「知里真志保は、『ひかりごけ』の裏の主役と言っていいほどの甚大な影響を作品に及ぼしている。食人事件とアイヌの差別問題をつなぐ接点。それは、『ひかりごけ』が法律の矛盾を取り上げながら罪とは何かを問おうとしているところにあるのだ」と述べている[19]。
前田角蔵は、この作品は「優秀民族、先進人種としての現在の日本民族の幻想と退廃をアイヌ民族の視点から告発している」と指摘している[20]。 ひかりごけ 1992年、フィルム・クレッセント=ネオ・ライフ製作、ヘラルド・エース配給で公開された[21]。監督は熊井啓、主演は三國連太郎。三國は船長、校長の二役を演じた[22]。
書誌情報
武田泰淳『ひかりごけ』新潮社 1964年1月28日 ISBN 978-4-10-109103-7
映画
監督熊井啓
脚本池田太郎、熊井啓
原作武田泰淳
製作内藤武敏、相沢徹
出演者三國連太郎、奥田瑛二、田中邦衛、杉本哲太、内藤武敏、笠智衆、井川比佐志、津嘉山正種
音楽松村禎三
製作会社フィルム・クレッセント=ネオ・ライフ
配給ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画
公開 1992年4月25日
上映時間118分
製作国 日本
言語日本語
テンプレートを表示
キャスト
船長:三國連太郎
校長:三國連太郎
西川:奥田瑛二
八蔵:田中邦衛
五助:杉本哲太
作家:内藤武敏
裁判長:笠智衆
検事:井川比佐志
弁護士:津嘉山正種
スタッフ
監督:熊井啓
脚本:池田太郎、熊井啓
原作:武田泰淳
制作:内藤武敏[注釈 1]、相澤敏
撮影:栃沢正夫
美術:木村威夫、丸山裕司
音楽:松村禎三
録音:紅谷愃一、野中英敏
照明:岩木保夫
編集:井上治
助監督:高根美博
スチール:赤井博且
表
話
編
舞台・オペラ
1955年 - 劇団四季によって舞台化[23]。
1972年 - 團伊玖磨作曲、浅利慶太演出でオペラ化。
初演:1972年大阪国際フェスティバル[24][25]
詳細は「ひかりごけ (オペラ)」を参照。
2006年 - 鐘下辰男によって舞台化[26][27]。
構成・脚本・演出:鐘下辰男[27]
劇場:下北沢ザ・スズナリ[27]
「演劇企画集団 THE・ガジラ2006年3月公演」として上演[27]
2021年 - 納谷真大によって舞台化[28][29]。
脚本・演出:納谷真大[30]
劇場:扇谷記念スタジオ・シアターZOO[30]
主催:イレブンナイン(ELEVEN NINES)[30][31]
脚注
注釈^ 壮年期に原作を読み、長年映画化を切望。企画担当した。
出典^ 小田切 1977, pp. 320?321.