はだしのゲン
[Wikipedia|▼Menu]
なお、ジャンプ掲載分では、1974年3月25日号から同年4月15日号まで「麦っ子たち はだしのゲン戦後編」(むぎっこたち はだしのゲンせんごへん)のタイトルで掲載されていた[18]
『市民』

週刊少年ジャンプでの終了の翌年である1975年から「連載再開」の連載先となった[1][3]。しかし、『市民』誌は革新の中での無党派を謳った雑誌であったため、支持基盤が磐石ではなく、「戦後編」第11話を掲載した1976年8月号をもって休刊となった[3]

その後、日本共産党系の論壇誌である『文化評論』に連載の場を移す[3]
『文化評論』

日本共産党系出版社である新日本出版社[19]が出版している文化評論[20]が、1977年から1980年までの連載先となった[1][3][4]

日本共産党は核兵器の全面的な禁止を訴える論調をとることとなり、「はだしのゲン」の連載はその格好の宣伝材料となり、激動編全26話、自立編全34話中6話が連載された。しかし、なぜか自立編の途中で「ゲン」は打ち切りとされた。このため、当時掲載されていた『自立編』は、文化評論連載分(計6話)が「第一部」、教育評論連載分(計28話)が「第二部」と分けられている[21]
『教育評論』

1980年の文化評論での終了後、1982年4月から日教組の機関紙『教育評論』で連載再開された [20]。学校への漫画持ち込みを厳禁とする教師が多い中、日教組機関紙連載作品ということもあり、傘下労組加盟教師らは「はだしのゲン」は認める傾向にあった。そのため、校内で堂々と読める唯一の漫画となった[3]。その結果、1980年代の子供達の間に「ゲン」が広く浸透することとなる。自立編第二部全28話、青春編全11話を連載し、1987年に教育評論での「第一部 完」をもって、連載は終了した。作者の健康状態の悪化のため、第二部は断念された[20]
コミック版・区分

読売新聞系列の出版社・中央公論新社発行の中公文庫コミック版および金の星社発行の完全版(いずれも全7巻)では、『週刊少年ジャンプ』掲載分を第一部、以降のシリーズを第二部に区分している。

汐文社では愛蔵版を10巻まで発行している。汐文社愛蔵版では区別はされていないが、第1巻 - 第4巻が第一部、第5巻 - 第10巻までが第二部である。これらの違いは以下の通り。

第一部は掲載当時の各回ごとの扉絵を掲載せず、そのまま話を一つにつなげていたため、同じシーンの繰り返しが多い。またジャンプ・コミックスではお約束の、単行本各巻ごとのサブタイトルも、汐文社版の第一部の分にはある。

第二部は第一部から年月が経っているため作風が変わり、セリフの活字が大きめになっており、また描き下ろしであるため、同じシーンの繰り返しがない。

第10巻の最終ページには「第一部 完」と書かれており[22]、東京を舞台とした「第二部」も予定されていた。しかし2000年代に入ってから患っていた糖尿病からくる白内障が悪化、2009年9月15日「視力が低下し、細かいコマが書けなくなった」として続編執筆の断念を正式に発表した[23]。中沢は闘病中も執筆への意欲は失わず、2話分の下描きまで完了させており出版の具体的な予定も決まっていたという。第二部のメインテーマは被爆者差別だった[24]

「はだしのゲン」の原画は1994年に広島平和記念資料館の東館開館を機に市に寄託されていたが、2009年12月8日、中沢は所有するすべての漫画の原画なども資料館に寄贈し、合わせて所有権を市に移すと発表した。その中には幻となった第二部の原画も含まれている[25]

現存する第二部の原画全32ページ分は、2013年に刊行された『「はだしのゲン」創作の真実』(中央公論新社)に、すべて写真で掲載された。
連載誌と各連載期間

連載誌の情報は『デジタル大辞泉プラス』を参照[26]

1973年第25号 - 1974年第39号 - 『週刊少年ジャンプ

1975年9月号 - 1976年8月号 - 『市民』(左派系オピニオン雑誌)

1977年7月号 - 1980年3月号 - 『文化評論』(日本共産党中央委員会の発行誌)

1982年4月号 - 1987年2月号 - 『教育評論』(日教組機関紙[4]

登場人物詳細は「はだしのゲンの登場人物」を参照

ゲンの家族の「中岡」の姓は、ゲンの父親大吉(中沢の父親がモデル)と同様に「生まれ変わった日本」を見ないまま坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎に因んでいる[27]。ゲンの名前は「生きること」への肯定の思いを込めて「元気」の「元」から名付けられた[5]。特高警察に父親が連れていかれて拷問されるところや姉が盗みの疑いをかけられて裸にされるシーンは実話である[28]
あらすじ

物語は、広島県広島市舟入本町(現在の広島市中区舟入本町)に住む国民学校2年生の主人公・中岡元(なかおか げん “以下、ゲン”)が、当時日本と交戦していたアメリカ軍により1945年8月6日に投下された原爆で、父・大吉(だいきち)、姉・英子(えいこ)、弟・進次(しんじ)の3人を亡くしながらも、たくましく生きる姿を描く。
第一部
ジャンプ掲載期(第一部)
原爆投下前後

舞台は1945年の広島市。戦況の悪化で市民生活が窮乏する中でも、ゲンの一家は家庭菜園の手入れに勤しみ、の実りを期待しつつたくましく暮らしていた。だがゲンの父で下駄の絵付け職人である大吉は隣組竹槍訓練を「こんな事でアメリカに勝てるはずもない」と冷笑するなど、時節柄はばかられる反戦思想を隠そうともしない。そのため中岡家の家族は、町内会長の鮫島や近所から「非国民」扱いされ、納品する下駄を川に投げ込まれたり、麦畑を荒らされるなど様々な嫌がらせを受けた。ゲンの長兄の浩二(こうじ)は周囲の冷たい視線をはね返すため海軍予科練に志願し、ゲンの次兄の昭(あきら)は、広島市郊外の山間部に疎開に行っていた。昭和20年8月初頭、広島の家に残っていたのは大吉、ゲンの母・君江(きみえ)、ゲンの姉・英子、ゲンの弟・進次、そしてゲンの5人。英子は昭より年上だったが、体が弱かったため疎開できなかった。

昭和20年8月6日朝。小学校の門の前にいたゲンは突然の閃光と爆風で気を失う。偶然にも門の影にいたことで無傷だったが、気が付いてみると町は一面に押しつぶされ、人々は全身の皮が焼け剥がれた姿で呻いている。状況が解らぬまま自宅へもどってみると、自宅も同様に押しつぶされて大吉・英子・進次が木材の下敷きになっている。偶然にも無傷だった君江と再会したゲンは協力して家族を助け出そうとするも果たせず、大吉はゲンに強く生きることを願いつつ、英子や進次とともに火災に巻き込まれ焼け死んでいく。半狂乱となったところを朝鮮人の朴に諭されて避難した君江は、ショックで女児を出産。名前は、友達がたくさんできることを願って「友子(ともこ)」と名づけられた。焼け跡で食料を探すゲンは熱中症で倒れたところを死体と間違われ、救護に訪れた兵隊によって火葬の炎に投げ込まれる。悲鳴を上げたゲンを火中から救い出した兵隊は、誤りを詫びてゲンを救護所へ連れて行こうとするが、途中で血便を垂れ、頭髪が急に抜けるなどの症状の末に急死してしまう。兵士は入市被爆で原爆症を発症していたのだ。やがてゲンの髪も抜け始め、彼は自分も「ピカの毒」で死ぬのではないかと恐怖する。髪の毛が全て抜け落ち坊主頭になったゲンは、道端で拾った消防団の帽子で頭を隠し、友子のための米を調達すべく奔走した。

ゲン達は江波(えば)在住で君江の友人のキヨの家に身を寄せ新たな生活を始める。しかしそこでは、キヨの姑や子供達からの迫害に甘んじる。そんな折、ゲンは死んだ弟の進次に瓜二つの少年と出会う。その少年、近藤隆太(こんどう りゅうた)は原爆で両親を失い、原爆孤児の仲間と共に、農家から食糧を盗み飢えをしのいでいた。隆太と初めて会ったゲンは、進次が生きていたのではないかと錯覚する。2回目に会った時、隆太は食糧を盗もうとしていたところを百姓に追い回されていた。ゲンは隆太を助け、君江が隆太を育てることになった。それ以降、隆太はゲンや君江を自分の兄や母のように慕い続ける。

ゲンは江波で仕事を探していたところ、地元の資産家・吉田英造に声をかけられる。連れて行かれた家では、全身大やけどの青年が血を吐き血便を垂らし、大量のウジにたかられていた。その青年・吉田政二(よしだ せいじ)は英造の弟で画家志望生だったが、勤労奉仕に出た広島市内で被爆したのである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:247 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef