なんばパークス
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なお、2005年4月1日からは南海の完全子会社である「南海都市創造」が営業を行っていたが、同社は2010年10月1日、南海に吸収合併され解散した[2]ことから、再び南海による直営となっている。

建物はキャナルシティ博多六本木ヒルズを手がけたアメリカ人建築家のジョン・ジャーディの設計。地球上の大峡谷に似せた建物の外観は雄大で、壁面は壮大な時間と地層を模している。第1期、第2期エリアを含めて彼の建築作品は完成となる。2014年にアメリカCNNの「世界で最も美しい空中庭園トップ10」に選出された[3]

イメージソング「Loving Life」を手がけるなど、葉加瀬太郎がイメージング・プロデューサーとして参加している[4]。また、南海グループ島屋と共同で行っている難波地区のPRキャンペーン「Lov↑ng NAMBA」(ラヴィング・ナンバ)の現在のマークも彼の手による。
歴史
前史
難波御蔵

1732年享保の大飢饉が起こると、江戸幕府西成郡難波村に災害救援用の米蔵を設置。天領から運上された米を貯蔵する幕府直轄の米蔵であることから、難波御蔵(なんばおくら)と呼ばれた。翌1733年には窮民対策も兼ねて、道頓堀川から御蔵前に至る難波入堀川(難波新川)が開削された。1752年には難波御蔵の東方に天王寺御蔵(高津新地御蔵)も設置されたが、多湿で米の傷みが早いため、1791年に難波御蔵へ統合されている。新御蔵が増築されて規模が倍増した広大な難波御蔵は、浪華名所の一つになっていた。
大阪地方専売局大阪工場

1897年大蔵省が明治以降使われなくなっていた難波御蔵を解体し、翌1898年には大蔵省専売局による葉煙草専売開始に合わせて煙草工場を設置。赤煉瓦造りの工場には2000人近い従業員が勤務し、難波駅周辺も急速に市街化したが、1945年米軍による大阪大空襲で壊滅した。
大阪球場詳細は「大阪スタヂアム」を参照旧大阪球場(1989年)

1950年に南海が煙草工場跡に南海ホークスの本拠地となる大阪球場を設置。1990年まで大阪証券取引所2部上場企業の大阪スタヂアム興業が運営する野球場として使用されたが、その後は住宅展示場などとして利用され、1998年に解体された。
沿革

1987年 - 南海電気鉄道(南海)・大阪スタヂアム興業・島屋ニッピクボタの5社により「難波地区再開発事業研究会」が発足する。

1998年11月 - 大阪球場の解体工事を開始する[5]

1999年11月1日 - なんばパークス第1期部分を着工する[6]

2003年10月7日 - 第1期部分が開業する[7]

第1期部分の開業から1年間の総入場者数は、目標の2,100万人を上回る約2,122万人だった[8][7]


2005年

4月1日 - 営業を、2004年5月10日に南海から分社した南海都市創造に移管する[9]

6月 - 4月から準備工事に入っていたなんばパークス第2期部分を本格着工する。

10月25日 - 「屋上緑化大賞・国土交通大臣賞」を受賞する。


2007年4月19日 - 第2期部分が開業し、全館開業する。

全館の開業から1年間の総入場者数は、目標の2,100万人を大きく上回る約2,920万人、売上高も目標の269億円を上回る約284億円だった[10]


2010年10月1日 - 南海都市創造が南海に吸収合併される[2]

2012年3月8日 - 全館開業から5周年を目前としてリニューアルする。

2023年7月1日 - なんばパークス サウスグランドオープン[11]

全体構造パークスガーデン (7F)2F南海難波駅との連絡口付近パークスガーデン

施設全体は、大きく分けて「なんばパークス Shops&Diners」(商業棟)、「パークスタワー」(オフィス棟)、ホテル2棟とオフィス(パークス サウス スクエア)の「なんばパークス サウス」の3つにより構成されている。
なんばパークス Shops&Diners
フロア構造

地上10階、地下3階建て。地上部分は段丘状に建てられている。植栽を多用し、屋上部分は「屋上庭園 パークスガーデン」として3階から9階まで緑が広がる1期部分の屋上庭園には、約235種類、約40,000株の植物が植えられている)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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