「東洋映画」が日本初の総天然色・長編漫画映画を製作するために「新東京動画社」を吸収・合併して、1955年(昭和30年)に設立されたアニメ制作会社[90]。社屋は3階建てで、2階に作画課や美術課、3階に仕上課があり、1階には製作課のほか録音スタジオや撮影スタジオなどがある日本初の大規模なアニメーションスタジオ[90]。
ドラマでの社屋外観は、豊島区西池袋にある「婦人之友社」の社屋を撮影した映像が使われている[115][116]。
作画課
仲 努(なか つとむ)
演 - 井浦新[117]アニメーターのリーダー。原画担当[90]。日本初の長編アニメーションの作画監督。昭和38年夏、山田陽平の誘いで「新東京動画社」を見学に訪れたなつと出会う。彼女の感受性を高く評価し、アニメーターを目指す上で度々手助けをした。時点の役職は作画課長。なつは仲を尊敬し、彼に迷惑がかかる事を心配して退社をためらっていたが、仲はなつの真意を聞いて快く送り出し、なつをはじめかつての同僚達が移籍先で作り上げた『大草原の少女ソラ』も感慨深げに見守りつつ、『ソラ』に登場した馬をもっと愛嬌を持たせて描き出した。仲自身も『ソラ』に加わりたかったのか、それともなつ達に対するライヴァル心の表われかは、ドラマでは語られていない。
大沢 麻子(おおさわ あさこ)
演 - 貫地谷しほり[118][注 17]アニメーター・セカンド。原画・動画担当[90]。美術大学出の敏腕アニメーター。サバサバした性格で、アニメーションに対する思いは人一倍強い。なつが入社した当初は、なつに対しては軽蔑するような言動もあったが、なつの素質をいち早く見い出し、彼女が作画課へ異動する道を拓く。1959年(昭和34年)、なつとともに短編映画『ヘンゼルとグレーテル』の原画を担当。製作が終わった後「東洋動画」を退職し、学生時代から交際していた建築家と結婚してイタリアへ移住した。1968年(昭和43年)、坂場が演出した『神をつかんだ少年クリフ』に感動し、アニメ製作の現場に復帰を決意。日本に帰国し自宅がある吉祥寺の地で、新しいアニメーション製作会社「マコプロダクション」を立ち上げ、数人のアニメーターを雇い下請け業務を行いつつ、「東洋動画」を辞めたり居場所や意欲を失った元同僚たちに入社を促し、迎え入れていく。設立後すぐに下山が移籍し、兼業主夫となっていた坂場をスカウト。昭和47年に桃代も移籍する。1973年(昭和48年)東洋動画より神地が移籍。創業以来温めていたテレビアニメ『三代目カポネ』の企画を数年越しで製作するも、一社単独で請け負う事が出来ず、『大草原の小さな家』アニメ化にあたっては単独製作にこだわり、優れた人材を求めなつに白羽の矢を立てた。なつは翌年陽平とともに移籍した。結婚生活で“子供が出来なかった”心残りから、子育てと仕事の両立に苦心するなつの世話を焼き、子守り募集のチラシ描きを手伝い、保育園からあがった優を会社に連れて来させ、忙殺されているなつに代わり手の空いたスタッフに面倒をみさせた。 『大草原の小さな家』を発展させ北海道に舞台を移した『大草原の少女ソラ』ではプロデューサーとして局やスポンサーとの間に立つだけでなく、動画チェックも手伝い、放送が始まり人手不足が深刻になると、現場から退いて久しい茜も招聘。マコプロダクションで働く夫婦を二組に増やした。『大草原のソラ』放送が佳境に入りアイディアとクオリティを尊重した結果、納期に間に合わないほど製作は遅れたが、放送休止だけは辛うじて免れ、最終回に至った。放送初期に視聴率の悪さをはじめとする局からの厳しい意見を一身に受けたのも、また山ほど届いた熱烈なファンレターを誰より喜んだのも麻子であった。番組スポンサーの「ミルコス」社から次回作での協賛も確約を取り、十勝で休暇を過ごす一久に帰京を急かす麻子の手には、児童文学『クオーレ』があった。通称「マコさん」
神地 航也(かみじ こうや)
演 - 染谷将太[119](手元吹き替え:伊奈透光