なぎら けんいち
なぎら 健壱
本名柳楽 健一
別名義なぎら けんいち
生年月日 (1952-04-16) 1952年4月16日(72歳)
出生地 日本・東京都中央区銀座(旧・木挽町)
国籍 日本
民族日本人
血液型O型
職業シンガーソングライター
俳優
タレント
漫談家
エッセイスト
ジャンルテレビドラマ
バラエティ番組 など
活動期間1972年 -
配偶者あり
著名な家族長男:eito.08
なぎら 健壱(なぎら けんいち、1952年〈昭和27年〉4月16日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント。本名は柳楽 健一(読みは芸名と同じ)。旧芸名・なぎら けんいち。
長男は、ヒップホップユニットのREMのボーカルであるeito.08(柳楽詠人)。弟子に中里トシ、田代ともや、プロフェッサー佐藤がいる。 父は宝石箱をつくる職人をしていた。中央区銀座東(旧・木挽町)から、小学校3年のときに葛飾区金町に転居[2][3]、葛飾区立末広小学校卒業、葛飾区立金町中学校
来歴・人物
高石友也に感化され、アングラフォークに目覚める。後に五つの赤い風船の西岡たかしや、高田渡に影響を受ける。1970年岐阜県の中津川で行われた全日本フォークジャンボリーにアマチュアとして飛び入り参加し(同年ひがしのひとしも同じく参加している)ライブ盤に収録された。なぎらが注目されたのは1971年の第3回全日本フォークジャンボリーだった[5]。おもむろにステージに登場したなぎらはアングラ・フォークの名作・加川良の「教訓I」を「いもちゅうは六十度…」と歌詞を変えて歌い、大ウケ[5]。以降、替え歌の名人と異名を取り[5]、吉田拓郎の大ヒット曲「旅の宿」を「土方のきみは木綿のふんどし 冷焼酎の首つまんで もう一発いっぱいいかがなんて みょうに色っぽいね」と歌った「旅のドヤ」は名作とされる[5]。
1972年『万年床』でアルバムデビュー。
なぎらの名前を全国に轟かせたのが1974年1月25日にリリースしたシングル「悲惨な戦い」だった[5]。同曲はフィクションにもかかわらず実話と聴き手は錯覚してしまうほどよく出来ており、日本相撲協会が「国技をなめているのか」とカンカンに怒り[5]、発売元のエレックレコードがそのことを宣伝のネタに使い、ますます怒りを買った[5]。この影響か不明ではあるが、放送禁止歌になり、ラジオやテレビから締め出された[5]。
1976年日本青年館での実況録音盤『永遠の絆』は、司会のタモリ、生田敬太郎、大塚まさじ、加川良、斉藤哲夫、シバ、高田渡、よしだよしこ、渡辺勝らが盛り立てた。1982年には坂田おさむとユニット「フォークマン・ブラザーズ」を結成し、活動した[6]。