とんねるず
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ただしこれは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはいまいち分かりづらいものである事も多かった(古くは『オレたちひょうきん族』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、『とんねるずのオールナイトニッポン』ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家マネージャープロデューサー・高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。

業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『ねるとん紅鯨団』、「野猿」の結成でありその「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。
とんねるずを育んだもの

2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章井上順ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫萩本欽一コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけしツービート)以外に受けた影響は少ない。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツハナ肇植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばり堺正章タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージ志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。

1991年から2000年にかけて、苗場プリンスホテルブリザーディウムで開催していた、コントライブ『こんと いん なえば』は、テレビとは違った本格的コントを生の舞台で客を笑わせることを重視していたが、元々舞台上に一切のセットを置かず、己の体ひとつで笑いや感動を与えていたイッセー尾形の『一人芝居』に触発されている。

バラエティ以外で影響を受けた者としては長嶋茂雄矢沢永吉アントニオ猪木、『傷だらけの天使』の萩原健一江川卓らが挙げられる。
メンバー

名前生年月日出身地血液型愛称
石橋 貴明
いしばし たかあき1961年昭和36年10月22日(62歳) 日本 東京都板橋区成増A型.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}貴(タカ)さん()
木梨 憲武
きなし のりたけ1962年昭和37年3月9日(62歳) 日本 東京都世田谷区千歳台O型憲(ノリ)さん()

経歴
素人時代

共に東京都出身で帝京高等学校卒業。在学中の石橋は野球部、木梨はサッカー部へ所属。この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという[5]

石橋は高校在学中から『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)をはじめとした、素人参加型コンテスト番組の常連出場者であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた[5]。なお、同時代のライバルには竹中直人がおり[6]、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオンの石橋と初代チャンピオンの竹中が直接対決し、石橋が勝ったことで初代グランドチャンピオンを獲得した。

石橋ほどの頻度ではないものの、木梨も主に和田アキ子のモノマネなどでで素人参加番組に顔を出しており、『TVジョッキー』では第5代チャンピオン獲得者として第2回グランドチャンピオン大会に名を連ねた(同大会には石橋も出演)。そんな木梨を「高校卒業の記念」として石橋が誘い、所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)へ共に出演[5]したのがコンビとして初めてのテレビ出演となった。『お笑いスター誕生!!』の出演までは、賞金を合計で多く得ようと意図的にバラバラで出演することもあったという[5]
お笑いスター誕生への挑戦

帝京高校卒業後、西武ライオンズトライアウトで不合格となっていた[7]石橋はホテルセンチュリーハイアットに入社、同ホテルが開業前だったことでホテルオークラで研修期間を過ごす。一方の木梨はダイハツ工業に入社し、2人とも一般企業に就職するものの、『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジ決意を機に2人とも退社して再会[5]。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。漫才だけではなく、モノマネ一発ギャグアニメの『魔法使いサリー』や『サンダーバード』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜いた[5]。なお、石橋はセンチュリーハイアットの正式開業直前に同社を退職したため、上司から強い叱責を受けたという[8]
「とんねるず」結成、プロデビュー

退社後の1980年に正式にコンビ結成[5]。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビのプロデユーサーである赤尾健一の紹介で日企に籍を置き、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わずハマらなかった。『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。


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