とうきょうスカイツリー駅
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1911年(明治44年)3月12日には、東武鉄道本社が両国から小梅瓦町(現・押上)へ移転し、東武鉄道中心拠点としての役割も果たして来た[1]蒸気機関車による運行で開業した東武鉄道のターミナル駅規模は大きく、構内に転車台、給炭水設備、機関庫、工場(浅草工場)などが設置され、また北十間川と結ぶドックが設置されて舟運の便が図られた[6]

1924年(大正13年)10月1日に西新井駅まで電化され、電車運行が開始された。電化区間は次第に延長され、やがて旅客列車は全て電車となり、貨物列車のみ蒸気機関車が残ることとなった[7]

その後も東武鉄道は都心側のターミナル駅を求め、当駅から上野駅への延伸計画を申請した[4]。この申請は1924年(大正13年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)まで認可されたが、上野駅までの免許は下りなかった[4]。この理由は浅草雷門駅 - 上野駅間は1919年(大正8年)に東京地下鉄道[注釈 1]が免許の交付を受けていたためである。やむを得ず東武鉄道は浅草雷門駅をターミナル駅とする方針へ変更し、1927年(昭和2年)12月15日に延伸工事を開始したものの、隅田川橋梁と浅草雷門駅の設計変更により工期が長引いた。

この頃、京成電気軌道(現・京成電鉄)も浅草への延伸を計画していたが、1928年昭和3年)9月26日京成電車疑獄事件が起きたことに伴い、京成電気軌道は浅草への延伸を断念することとなった。このような紆余曲折の末、1931年(昭和6年)5月25日に東武鉄道は浅草雷門駅への延伸を果たした[1]。この延伸に伴い、駅名を業平橋駅(なりひらばしえき)に改称した[1]。延伸後は、旅客営業としてのターミナル駅は浅草雷門駅へ移ることとなり、当駅は優等列車は全て通過する単なる中間駅となった。1931年(昭和6年)6月25日には、駅に乗り入れていた東京市電も営業休止となった。当駅は貨物営業のターミナル駅としては健在で、都内私鉄貨物駅としては最大取扱量を記録した。1933年(昭和8年)から木製ホッパーが設置されて、砂利到着拠点となった。当駅の貨物取扱量の最大は、戦前は1937年(昭和12年)の年間約90万トンで、戦後は1964年(昭和39年)に年間約128万トンを記録している[8]

戦後はトラック輸送が進出して来たため、舟利用が減少し、1954年(昭和29年)にドック使用を断念し、1955年(昭和30年)に埋立てられて廃止となった。跡地には倉庫が設置された[9]。東武鉄道としての貨物輸送量のピークは1961年(昭和36年)で、それ以降は減少の一途を辿るようになった。蒸気機関車による貨物列車の電化が進められ、1963年(昭和38年)10月に当駅での蒸気機関車使用が消滅する[10]高度経済成長によって高速道路国道が相次いで開通し、モータリゼーションが進行したことにより、取扱量減少に歯止めが掛からなかった。そして、1993年(平成5年)3月25日をもって当駅を発着する貨物列車は廃止された[1]

1962年(昭和37年)5月31日に北千住駅を介して営団地下鉄日比谷線[注釈 2]との直通運転を開始すると、伊勢崎線の旅客輸送は飛躍的に増加した。しかし、浅草駅は構造上の問題で10両編成の通勤電車が発着出来ないため[4][注釈 3]、北千住駅以北を複々線にしたうえで運転本数を増加することで輸送力を賄った[注釈 4]。それでも北千住駅の乗換客による混雑は一向に解消されなかったため、貨物扱い設備が縮小されてきたスペースを利用して、1990年(平成2年)9月25日に当駅に10両編成が停車可能な地上ホーム2面3線を新設し[11][12]、伊勢崎線の10両編成列車は当駅を始発・終着駅とした[11]。また、押上駅への地下連絡通路も新設された[11]

2003年(平成15年)3月19日に押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線[注釈 5]との直通運転を開始したことに伴い、当駅の地上ホームと押上駅への地下連絡通路が廃止された[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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