てるてる家族
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石原さとみは応募者2036人のオーディションで選ばれた[6]。放送開始当時彼女は16歳であり(放送期間中に17歳の誕生日を迎えた)、史上最年少のヒロインとなった[7]。同時に語り担当としても史上最年少となった(語りに関しては14歳で『まんぷく』で務めた芦田愛菜が更新した)。
あらすじ

1946年(昭和21年)、銀行員の岩田春男は、銀行をやめてパン職人になる決心をし、妻の照子と、長女春子を連れて佐世保米軍基地で修行を積む。その間に二女夏子が生れ、2年後大阪に戻った春男は、池田市の自宅で「岩田製パン」を開いた。やがて秋子、冬子が次々に生まれる。

1953年(昭和28年)春夫と映画「また逢う日まで」を鑑賞に行った照子は、街頭テレビに群がる人々を報じるニュース映画を見て閃き、"テレビジョンの見られる店"「喫茶シャトー」をオープンさせる。池田で初のテレビジョン付き喫茶店とあって、店は大繁盛し、程なく梅田駅前にあるスケートリンクの隣に支店「シャトー梅田リンク店」を出した。それがきっかけでフィギュアスケートを始めた春子はオリンピック出場を目指し、夏子も芸能プロダクションにスカウトされ、芸能界への道を歩き始める。

一方、秋子と冬子は平凡な毎日を送っていた。秀才で生活の中に創造を見出そうとする秋子に対し、冬子は勉強も運動も不得意ったが、周囲を楽しくさせる楽しい子。自分も姉たちのようにを持ちたいと願い、ふとした切っ掛けから宝塚歌劇団入りを目指す。登竜門である宝塚音楽学校の入試に見事合格し入学した冬子だったが、自分の本当にやりたいことはパン職人の道であることに気付き、卒業後春男の下でパン職人の修行を始める。春子は、フィギュアスケートの日本代表として1968年グルノーブルオリンピックに出場を果たし、夏子は"いわたなつこ"の芸名で歌手デビューし、NHK紅白歌合戦にも出場を果たした。冬子もパン職人の才能を開花させ、「喫茶シャトー」をパン屋「ベーカリーてるてる家族」として再スタートさせる。そして、大学生の秋子も自分のやりたい道を見つけ、アメリカへの留学に旅立った。

3人の娘が旅立った岩田家。冬子が春男や和人らと、いつものようにパンを作っている風景で物語は終わる。キーワードは、「なるようになる」(ケセラセラ)……。
キャスト

冬子、春子、夏子、秋子の4名をまとめる時は「四姉妹」と表記する。
岩田家と関係者
岩田 冬子(いわた ふゆこ)
演 -
石原さとみ(語りと兼任)(幼少時代:小林ゆか、少女時代:田島有魅香)本作のヒロイン。昭和24年冬池田で生まれた岩田家の四女。小柄で子供っぽく、能天気で単純でおっちょこちょいだが、母照子譲りの行動力で、興味を持ったことには何でも飛びつく。勉強も運動もクラスでビリを競うレベル。才能ある姉たちに比べ平凡で、夢が見つからないことを悩む。しかし父春夫の工場で作るパンが大好きで、中学校在学時には「岩田製パン」が学校でパンを販売するきっかけを作り、その仕事を他社に奪われて窮地に陥った際は、起死回生を図り中に磯辺餅が入った「てるてるパン」を考案してヒットさせるなど、家業に大いに貢献して来た。桑原和人から未来の夢を尋ねられた際答えに窮して咄嗟に「宝塚目指してんねん」と出まかせを言い、引込みが付かなくなってタカラジェンヌを目指す。昭和41年春、悪戦苦闘の末宝塚音楽学校に合格したが、卒業記念公演の後夢の中で"天の声"を聞き、歌劇団には入団せず家業のパン屋を継ぐ道を選んだ。昭和45年、母が創業した「喫茶シャトー」を改装して"喫茶店があるパン屋"「ベーカリーてるてる家族」をオープンさせた。毎年大晦日、家族が「NHK紅白歌合戦」を見ている隙にお節料理をつまみ食いする習慣がある。料理は照子に習ったのか、どうしても塩辛くなってしまう。宝塚音楽学校の二次試験のバレエの演技中、失敗しても凍り付いた笑顔で演じ続けたが、このエピソードはフィギュアスケート選手で、札幌オリンピックのフリー演技で尻餅をついても笑顔で演技し続け銅メダリストとなったジャネット・リンを彷彿とさせる。なかにし礼夫人の石田ゆりがモデルだが、彼女は昭和26年秋生まれであり、経歴もドラマとは異なる。衣装のイメージカラーは冬の空に舞い積もる雪の白色。
岩田 春子(いわた はるこ)→ 岡谷 春子(おかや はるこ)
演 - 紺野まひる(幼少時代:大島正華、少女時代:滝裕可里、スケートシーン:柳谷明音、竹内千晃、今川知子)岩田家の長女。昭和21年春池田生まれ。小学校3年生の時からフィギュアスケートを習う。天性の努力家で照子の大きな期待を背負う。強力なライバル達にどうしても勝てず、急性肝炎で4か月のブランクを余儀なくされるなどの苦難も乗り越え、スケー選手としての才能を開花させた。昭和41年「同志館大学」に入学し、グルノーブルオリンピックへの出場を目指す。その後は更に実力を上げ、五輪出場選考会も兼ねた第34回全日本フィギュアスケート選手権で3位に入賞して出場権を獲得。五輪大会での成績は26位だった。大会後選手を引退し、昭和45年、先輩の岡谷信夫と結婚した。中学生時代の冬子が頑張れるものがないと嘆いた時、「自分の太陽は、きっと…自分の中にしかあらへんもんなんやわ。どんなに小さくっても…どんなに弱々しくっても、1つしかあらへん」と語った。グルノーブルオリンピック代表の石田治子がモデルだが、彼女は昭和20年秋生まれである。衣装のイメージカラーは春の桜、花々の淡いピンク?赤色。
岩田 夏子(いわた なつこ)
演 - 上原多香子(幼少時代:中村愛、少女時代:櫻谷由貴花、スケートシーン:藤原佳子、宇野久美子)岩田家の二女。昭和22年夏、佐世保市難産の末に生まれた。生後2ヶ月で急性肺炎に罹り危篤に陥ったが、米海軍病院でハリー医師からペニシリンの投与を受け、九死に一生を得た。類希なる美貌と華やかさを持つ。姉と共にスケート選手を目指していたが、昭和34年田中コーチの勧めでフィギュアスケート全日本ジュニア選手権に出場し、最年少ながら成績で1位となる。しかし、年齢制限を満たさない参考出場選手だったため"順位"は付かず、ショックでスケートへの興味を失う。そんなある日大会での彼女の演技を見た「梅田グランド劇場」の責任者である斉藤からスカウトされて芸能界入りした。昭和39年冬、レコード歌手を目指して上京し、斉藤家で暮らす。昭和41年に「いわたなつこ」の芸名で「ネエ、聞いてよママ」を吹込み、ようやくレコードデビューを果たすが売れず、その後もヒットに恵まれなかった。社長の青田の提案でレコード会社を移り、移籍後3曲目の「ブルー・ライト・ヨコハマ」がミリオンセラーを記録。終にスター歌手の座を射止め、昭和44年紅白歌合戦への出場も果たした。好物はサバ料理で、タコが嫌い。歌手石田良子(芸名:いしだあゆみ)がモデルだが、彼女は昭和23年春生まれである。衣装のイメージカラーは夏の晴れ渡る海空の明るい青色。
岩田 秋子(いわた あきこ)
演 - 上野樹里(幼少時代:釜口茅耶子、少女時代:足立悠美加)岩田家の三女。昭和23年秋池田生まれ。成長後は四姉妹の中で一番背が高い。岩田家きっての秀才だが同時に"変人"で、中学校3年時、将来の夢を尋た母の照子に「激しい情熱を持ちながら、普通に生きてみたいねん」と熱く語り、「あの子は、ちょっとおかしい」と嘆かせた。なぜかその頃から、ムシャクシャした時にはマンボを踊って憂さを晴らすようになった。米原恭司の影響でシュルレアリスムに傾倒するなど、芸術家肌の一面も持つ。小学校4年生時の昭和33年に即席ラーメンを開発中の安西千吉と偶然出会う。試作品を食べた後彼の研究小屋を見学し、苦労話を聞くうちに「何や、お茶の水博士みたい」と彼に心酔し、以後仕事を手伝う。照子に露見して通うことを禁じられると家出して、6日間安西家に住み込んで「ニコニコめん」の商品化に至るまで協力した。昭和42年「北摂大学」理学部に入学後はリケジョとして「うそ発見器」や「目覚まし装置」などを製作。当時流行のミニスカートを穿いて父の春夫を困惑させる。4年生時に新商品カップ麺を開発中の千吉と再会し、協力を申し出た。フリーズドライ乾燥法を実用化させ、エビの最適具材海老プーバランを発見するなど、商品完成に貢献した。その過程で遺伝子に興味を持ち、安西から卒業後に「池田食品」への入社を求められたが、考えた末分子生物学研究のため米国の大学へ留学した。ちなみに第50回に彼女が物干し台でマンボを踊り、「ハァ?!ウッ!(雨?)」と叫んだ途端激しく雨が降り出し、慌てて洗濯物を取り込むシーンがあった。恰も雨乞いダンスのようで一見照子がてるてる坊主を吊るすのと正反対の行動だが、家族の幸せを願うという方向性は同じである。冬子のモデル石田ゆりの三姉という設定だが、同人の名前や経歴は不明。衣装のイメージカラーは秋の木々に萌える山吹色。
岩田 照子(いわた てるこ)
演 - 浅野ゆう子[8]春男の妻で、四姉妹の母。


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