つばめ_(列車)
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^ 炭水車については鉄道史料第93号 p.57による。通路を設けた炭水車は「コリドーテンダー」と呼ばれ、欧米でも使用例がある。なお、『高田隆雄 写真集 追憶の汽車 電車』(鉄道友の会 編、交友社、1998年)p.22にC51形の運転台側から当該改造を施された炭水車を撮影した写真の掲載があり、石炭庫上に枠を組んで通路とし、その上部に手すりを設置してあったことがわかる。
^ 現在では安全上、この様な走行中に車外に出て交替する方法は禁止されている。
^ 超特急「つまね」スタート『東京日日新聞』昭和5年10月7日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p447 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 「神戸から京都へタッタ一時間だ」“燕”より早いスピードアップ 省電の痛快な計画神戸新聞 1935.12.17 神戸大学電子図書館システム
^ 特急「つばめ」、関西線回りで天王寺着『大阪毎日新聞』昭和10年8月12日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p210 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 「へいわ」は当時の加賀山国鉄副総裁が平和を願うという意味で暫定的に定めたものである。
^ 「交通情報 特急一・二等車に座席指定」『汎交通』 第50巻第10号、日本交通協会、1950年5月 34ページ
^ 「特急つばめ 食堂車」No.CFSK-0059 中日映画社
^ 「特急券のヤミブローカー御用」『日本経済新聞』昭和25年11月4日2面
^ この方向転換は戦前から実施されていた。
^ 宮脇俊三編著、原口隆行企画・執筆『時刻表でたどる鉄道史』JTB、1997年、p.107
^ 浅野明彦『昭和を走った列車物語』JTB、2001年、p.89
^ 「つばめ」「はと」の初期をのぞいて使用された展望車は、「つばめ」にマイテ39、マイテ49 2、「はと」用にマイテ58。電化直前期の「つばめ」「はと」の車両については、椎野剛「つばめ」、TY生「はと」(ともに『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 5 国鉄客車ダイヤ改正 1950』電気車研究会、2004年)に詳述されているが、マイテ39が二重屋根であったことは当時から問題とされていた。なお両列車の最終日の編成は同p.139に記載。
^ 主電動機はMT46A形(端子電圧375V時1時間定格出力100kW)。なお、当時の「つばめ」は電動車6両と主電動機を搭載しない制御車・付随車5両で編成されており、各車種の需要の問題から電動車比率の引き上げは困難な状況であった。この編成でも平坦線では多少の余力があった(1960年には一部の東海道特急で付随車を1両増結して12両編成としている)が、22.6‰(パーミル)(1000メートルあたり22.6メートルの高低差)の急勾配区間が10kmに渡って連続する「瀬野八」を登坂するには出力が明らかに不足しており、また下り勾配での抑速についても151系は主制御器(CS12形)に発電ブレーキによる抑速ブレーキが非搭載のため、様々な問題を抱えていた。これらの問題は、東海道新幹線開業後、1965年に主電動機(MT54形。端子電圧375V時1時間定格出力120kW)や主制御器(CS15B形。戻しノッチ機構および抑速ブレーキ搭載)を新製交換して181系に改造するまで、151系のウィークポイントの一つであった。
^ この措置は同様にMT46Aを主電動機とする153系電車を使用する山陽本線急行でも採られている。153系の場合は、編成両端の連結器自動連結器であった151系と異なり、国鉄電車標準の密着連結器であったため直接補機を連結できず、電車用密着連結器と機関車用自動連結器をそれぞれ片方の車端部に装着した専用の控車を機関車と電車の間に挿入することを強いられている。
^ このサヤ420形は421系パンタグラフ電動車モハ420形3両を早期落成させて電源車としたものである。のちに「つばめ」「はと」が交直流電車化されて役目を終えたサヤ420形は当初の予定どおりモハ420-21 - 23となった。
^ 以降、「この名称に釣り合うだけの格式のある列車がない」という理由から、1992年7月の「つばめ」登場まで、定期運転される列車の名称には用いられることのないままに推移した。
^ 1981年、翌年の東北上越新幹線開業に際し、列車名選考委員会にて上越新幹線の速達型列車の愛称が「つばめ」に決まりかけたが、当時国鉄旅客局長の須田ェが新潟鉄道管理局に確認を取ったところ、ツバメは新潟まで飛んでこないということが判明し、結局「あさひ」に決定した (宮脇俊三 『終着駅』河出書房新社、pp.142 - 144、2009年 ISBN 9784309019383)。
^ 前田徹 (2003年3月21日). “春を告げるイメージ 九州新幹線は「つばめ」”. つばめ開業 (西日本新聞). ⇒オリジナルの2004年5月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040512103916/http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/tsubame/kanren/kiji/030321_1.html 2012年11月29日閲覧。 
^ JR 九州での表記は「ビュッフェ」であった。山田亮「わが体験的ビュフェ論」『鉄道ピクトリアル』2007年10月号 p.59
^ 交通新聞 2003年3月25日
^ a b バス・ジャパン3号 「特集:国鉄バスのゆくえ」p.3
^ 決算短信・説明会資料 - JR九州
^ “「多彩なイベント用意」 長崎駅対策でJR九州社長”. 長崎新聞 (2020年2月28日). 2021年2月14日閲覧。
^制服が新しくなります! - JR九州(2016年12月2日)
^ なお、冷房装置は1942年夏まで使用されていたという説も存在する
^ 「JR年表」『JR気動車客車編成表 '01年版』ジェー・アール・アール、2001年7月1日、188頁。ISBN 4-88283-122-8。 
^ 「JR年表」『JR気動車客車編成表 '03年版』ジェー・アール・アール、2003年7月1日、189頁。ISBN 4-88283-124-4。 

関連項目

つばめグリル - 屋号は、戦前の特急燕が当時当店最寄りの新橋駅に停車しなくなったことを惜しみ命名されたものである。[1]

外部リンク

記録映画『 ⇒つばめを動かす人たち 』製作:日映科学映画製作所 1954年昭和29年) モノクロ 24分

列車運行の舞台裏をメインに、当時の特急つばめを描いた短編映画である。乗務員だけでなく輸送司令員整備員保線員までをも含む、東京駅9時0分発下り列車の運行に関わる職員たちの姿を、展望車や食堂車での乗客の様子や、車窓からの風景などを交えて見ることができる。
映像は、車両の整備や機関士たちの勤務開始の様子、列車の回送、つばめガールたちの客車内での準備作業などから始まる。旅客運転中には、踏切への小型トラック侵入に警笛呼鳴とブレーキ操作で危険を回避したり、名古屋駅まで列車を牽引してきたEF58形電気機関車の交代にC62形蒸気機関車が客車に連結されるなどのシーンもある。大阪駅到着後は、宮原機関区での機関士たちや蒸気機関車整備の様子で終わる。
この作品は現在科学映像館NPO法人・科学映像館を支える会)のウェブサイト上で ⇒無料公開されている。

^ “つばめグリル - つばめの歴史”. 2023年1月13日閲覧。

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