だんだん
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同じ年の5月26日、弟の健太郎が歌声が聴きたいからと松江から持ってきたギターと、京都のライブハウス「ワイルドダック」でステージに立ってパフォーマンスをするのぞみと康太と俊の姿を見て、半年前に止めていた音楽に再び触れることとなる。それから2日後には、老人ホーム「琥珀苑」での介護のボランティア活動も始める。その年の8月16日、ちょうど1年前の松江城内での「シジミジル」のライブで、数時間前に出雲大社で偶然顔を合わせたばかりののぞみと一緒に歌った「赤いスイートピー」を聴いて、この2人を歌手としてデビューさせようとあらゆる手を使って口説いてきた大阪の芸能事務所のマネージャーの石橋が福岡へ転勤になると聞いて、石橋への想いに気づく。数日後、その日のうちに福岡に発つ石橋が最後に寄った「ワイルドダック」で、19歳の誕生日プレゼントにと石橋がくれたオルゴールに使われていた「M」をギターで弾き語り。途中から参加したのぞみと素晴らしいハーモニーをきかせたことで、石橋の福岡行きを思いとどまらせた。2002年4月30日、大学生を続けながら、のぞみ、康太、俊と一緒に「シジミジル」でプロの歌手になる決意をする。このとき、「花むら」を出て、のぞみと一緒に大阪のマンションで暮らすようになる。その後、念願の歌手デビューを果たす。最初、4人による「SJ」(「シジミジル」の略称)として関西圏で活動し、次に、のぞみとの双子デュオ「Sweet Juno(スイートジュノ)」として全国に名を轟かせ、一世を風靡した。しかし「琥珀苑」での介護のボランティア活動との両立ができなくなったことや、所属事務所の命令による「SJ」の強制解散、カバー曲中心の活動に疑問を感じて、2003年10月19日、「Sweet Juno(スイートジュノ)」の初めてのコンサートの最後に突如解散を宣言。2004年3月からは、再び「花むら」に下宿する日々を送る。そんな中、同年8月にボランティア先で介護と看護の境界線を知ったことで、大学卒業後は松江で介護福祉士として働きながら、看護師の資格も取る決意を固める。しかし、3年後の秋、無理がたたって体調を崩し、看護師の資格取得に専念。翌年の2008年3月、無事に看護学校を卒業し、4月からは看護実習で訪れた松江第一病院で看護師として働き始める。同年11月、10年ぶりに知夫里島に帰郷の石橋に同行した際、目の前に雄大な日本海が広がる赤壁で石橋から一緒に実家の診療所をやっていかないかとプロポーズされ、それを受け入れた。3年後の2011年1月、介護と看護が必要な知夫里島で島民の健康を守るために石橋と毎日奮闘の日々を送っていた。と同時に、お腹の中には新しい命が宿っていた。「ワイルドダック」では、大抵バナナジュースを注文している。携帯電話の着信音は「赤いスイートピー」(歌手活動以降、マナーモードの方が多い)。のぞみとの見分け方は、右手で受話器をとったり、緊張や不安の状態のときには右手で左腕をさすったりするところと、カジュアルな洋服や白衣の着用が多く、出雲弁を話すところ。名前の由来は「愛に恵まれますように」という両親の願いから来ている。
一条(花村)のぞみ
演 - 三倉佳奈京都・祇園の芸妓の娘で、芸一筋に生きる舞妓。好きな曲は「赤いスイートピー」と「M」。18歳の誕生日の2000年8月16日、出雲大社で銀のススキを落とし、それをめぐみが拾った。そして、めぐみと顔を合わせた瞬間、あまりに瓜二つであったので2人とも驚き、言葉を失う。さらに、その場に居合わせた石橋に促されてめぐみが言った誕生日が自分と同じ誕生日であったので、ますます動揺してしまい、舞妓になった5月15日を誕生日と言ってしまった。その後、「花むら」で酔っ払った後藤が、18年前に隆康があやした赤ん坊の名前をめぐみと口を滑らせたことで、自分とめぐみは双子の姉妹だと確信。それからめぐみと頻繁に連絡し合うようになり、同年の10月1日にめぐみが松江の市役所で手に入れた戸籍謄本で2人が本当の姉妹であることが判明した。それから6日後、家族に嘘をついて祇園に来させためぐみと入れ替わって松江に行き、翌日、実の父親である忠から、母親の真喜子との出会いから結婚を経て離婚までに至った経緯を聞く(一方のめぐみも、祇園で生母の真喜子から真相を聞かされる)。翌年の春から、めぐみが大学進学のために京都に移ってきたことで、自由な生活を送るめぐみをうらやましく思うようになる。そして、2002年2月24日、忠のボクシングの試合を観て、芸妓になることが自分の道ではないと考え、襟替えを10日後に控えているにもかかわらず、舞妓を辞め、翌日からは松江に移り住む。低学歴のため、アルバイトに応募することを躊躇するが、やがてめぐみら3人とともに歌手になる決意をする。「SJ」解散後のめぐみとの双子デュオ「Sweet Juno(スイートジュノ)」では、順調に活動を展開するが、解散後のソロ活動は不調で、「舞妓姿で歌を歌う」という案を拒絶して所属していた「サリーミュージック」との契約を解消。キャバレーなどで細々と歌手活動を続ける。やがて自分の歌手活動の限界を感じ、2004年9月、再び祇園に戻る道を選んだ。3年後の2007年10月、井上流名取となることを許された一流の芸妓となったが、自分が育った「花むら」の今後の行く末を考えて、同年11月に次の女将になる覚悟を決めた。同時に、康太の妻になる決意もする。なお、2001年春ごろから2004年夏ごろまでは石橋に想いを寄せていて、その気持ちを何度も伝えていたが、ことごとくフラれていた。2008年2月、芸妓を辞めて「花むら」の女将となり、女将修行を始める。その際、前女将である久乃の養子に入り、さらに同年5月、康太と結婚した。3年後の2011年1月、久乃の手助けなしに何でもひとりでこなせる立派な女将へと成長していた。同年2月、見かねた久乃は、2人の時間を作る目的で、2人には内緒でわざと家出をさせた舞妓の花知こと、節を松江まで迎えに行かせた。その後、節から真相を聞かされ、2人は仲直り。その足で知夫里島へと向かった。そして、めぐみたち「シジミジル」のメンバーの前で妊娠を報告した。2002年ごろから2004年9月ごろにかけては、携帯電話の着信音は主に「M」にしている。めぐみとの見分け方は、左手で受話器をとったり、緊張や不安の状態のときには左手で右腕をさすったりするところと、エレガントな洋服や和服の着用が多く、京言葉を話すところ。名前の由来は「望みがかないますように」という両親の願いから来ている。
松江の人々
田島忠
演 -
吉田栄作めぐみとのぞみの実の父親で、真喜子の元夫。優しいが、頑固なところもある松江市宍道湖のシジミ漁師。めぐみの友達には「松江のトム・クルーズ」と言われている。シジミの佃煮が大好物。中学卒業後はプロボクサーになるために、両親に反発して大阪へ。17歳でプロボクサーとなり、才能があると将来を有望視されていたが、2年後、父親の死を伝えに来た当時の妻の真喜子が2人の男性に絡まれた際、その中の相手ひとり(元ボクサー)を殴ったためにボクサーを辞め、真喜子とも離婚し松江へ戻ることとなった。その際、めぐみひとりだけを連れて帰った。それから19年、ボクシングを封印していたが、「黒髪」が上手に舞えないと言う19歳ののぞみと暴力事件を起こした当時の自分を重ね合わせ、「子どもたち3人には、後悔しない生き方をしてほしい」と考え、厳しい減量とトレーニングの末、一度だけリングに立つ。必殺技は、シジミ漁で鍛えた左腕から繰り出す「ジョレンアッパー」(吉田の命名)。なお、真喜子とは、めぐみとのぞみが生まれるちょうど1年前に京都に遊びに行った際に、偶然会った。当時、忠は18歳、真喜子は16歳であった。
田島嘉子
演 - 鈴木砂羽忠の妻で、めぐみの育ての親。生年月日は1961年7月14日。料理が得意。演歌が好き。1982年冬に忠が乳飲み子のめぐみを連れて松江に戻ってきた。当時、田島家に隣接する実家で出雲そば屋の手伝いをしていたが、忠と初枝には一切の事情を問うことなく、自然とめぐみの面倒も見るようになっていった。
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