高校卒業後、「すぐにでもプロの劇団に飛び込んで研究生にしてもらおう」と考えていたが、両親の顔を見ていたところそれも言い出せなかったこと[2]、サラリーマンになり、一人っ子のため、将来、両親の面倒を見るためという優しい気持ちだったこと、あまり勉強は好きではなく演劇学科だったらなんとなく遊べるような印象があったため同大学に進学したという[4][11]。同大学進学後も勉強せず、ここでも『どん底』など数々の演劇公演に参加していた[2][4]。この頃、プロデュースの仕事に興味を持ちはじめ、しばらく制作スタッフとしての勉強に力を入れていた[2]。
同大学卒業後、テレビプロデューサーを目指して、北海道から九州まで、数々の放送会社の就職試験に落ちて日本テレビの大道具係をしていた[2][11]。勤務のかたわら、大学時代の同級生だった田中康郎と組んで、劇団演劇座を結成し、『毒薬と老嬢』を北海道札幌市まで公演をしていた[2]。その時に大学時代の同級生の小林から「俺たちの劇団に来ないか」と言われて、劇団泉座[8]に入団[6][11]。泉座は中華人民共和国の芝居を結構していたが、イデオロギー優先のものがほとんとで、『毛沢東語録』を読んで勉強するような、面白くない芝居ばかりだった[6]。「やらないか」と言われたことから、「じゃあやってみるか」ぐらいの気持ちで舞台には立っていた[6]。
テレビ放送開始後、洋画の吹き替えに出演して声優としての活動を始める[6][11]。最初に吹き替えをしていた外画は「お金になるんだよ」というそれだけだったことから全然覚えていなかった[6]。テレビドラマのデビューは『ダイヤル110番』[6]。演劇集団未踏[9]、東京俳優生活協同組合[13]、河の会[13]、江崎プロダクション[14]に所属していた。
以前は本名で活動していたが、『タイムボカン』への出演を機に、子供にもわかりやすい「たてかべ和也」に改名したという[4]。
事務所のマネージャーとちょっとしたボタンの掛け違いのようなことがあり、当初はズレを感じている程度かと思ったが、気が付くと、同じような疑問を感じている人物が周囲にもいた[6]。その時、「じゃあ、俺たちでやろうか」ということになり、1979年、オフィス央[8]という事務所を興し、社長職と声優を兼務していた[6]。食べていけず、マネージャーのようなことをして、皆を売ろうとしていたが、結局は自分が売れてしまったりしており、役者をしながらマネージャーをするという気持ちはなかった[6]。ところがタイムボカンシリーズ、『ドラえもん』もあったことからやらざるを得ないということもあり、皆を売りたかったからだという[6]。その後、事務所のメンバーの反対を押し切ってのことで、一緒に来ていた連中は5年も頑張って来たことから、「このままやっていこう」と言ってくれた[6]。しかし事務所に圧力がかかってくるようなこともあったため、「このままでは厳しい」と思い、合併を決断し、1984年ぷろだくしょんバオバブ[8]に吸収合併される[6][15]。堀内賢雄を見出したのはこのオフィス央時代である[5]。堀内がバオバブから独立し、ケンユウオフィスを立ち上げてからは、たてかべも同事務所に移籍し取締役も兼務していた[5]。 2005年、第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』のレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太の4人)とともに田山力哉賞を受賞[16]。さらに2006年11月、第11回アニメーション神戸で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞。2007年3月には東京国際アニメフェア2007で、同じくオリジナルレギュラー陣4人と共に第3回功労賞を受賞[17]。 2009年に、胃癌を患い胃を全摘出した[5][18]。この際の治療でこだわったのは、レギュラーだった『ヤッターマン』のトンズラー役をやりきることだった。この癌までは大病が無く、一度も入院した経験もなかったため、「その手の事務仕事が苦手で、ストレスになってたかもしれない」と語っていたが、マネージャーが全てやってくれたという[5]。 2015年6月18日午後1時49分、急性呼吸不全のため、東京都内で死去した。80歳没[7]。たてかべは生涯独身で、親族と事務所関係者が最後を看取ったといわれる。2009年の胃の全摘出後は、癌の再発はなかったものの、晩年まで体調が優れず、老衰のような形で亡くなったという[18]。
受賞歴
闘病・死去