たちあがれ日本
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この与謝野の判断に対して園田博之は、民主党政権打倒を掲げて「たちあがれ日本」をつくったときの立党精神を置き忘れてしまったのではないかと批判した[25]
石原新党

2012年1月18日、参議院においてたちあがれとの政策の隔たりがあった新党改革との統一会派を解消し、自民党と共に「自由民主党・たちあがれ日本・無所属の会」を結成した。

1月25日に、石原慎太郎東京都知事、国民新党の亀井静香、たちあがれ日本の平沼赳夫で3月中にも新党を結成するとの報道が流れた。当初、平沼は「亀井さんの一人芝居」と否定してきたが、石原新党結成を目指した発言をしていくようになる。平沼は1月25日の記者会見で保守結集を目指し、「自民、民主の一部に働きかけ、70?80人を糾合することを目標にしたい」と語り自民党の反発を受けた。自民党の谷垣禎一は27日夜、「自民党からも引っ張ってこようというような失礼な話にコメントする必要もない」と不快感を示した。31日、石原伸晃も「人の財布に手突っ込むな」と反発した。

3月7日、平沼は記者会見で「都知事は、予算などで都議会が開かれているので、3月までに新党をつくるのは現実、考えられない問題だ」として当初目指していた3月結成を断念。「謀は密なるものを旨とすることだ。作業は深く静かに潜行してやっていかなければならない」とも述べて引き続き新党結成を目指す姿勢を鮮明にする。

石原は4月12日、訪米前に成田空港で記者団の取材に応じ、新党構想について「一回ないことにする。白紙に戻す。やる必要があるならばおれ一人でも台本づくりをやる」と新党構想を練り直しを表明する。その後、訪米先で都による尖閣諸島購入を表明。たちあがれ日本もこれを支援するため、尖閣諸島購入の為の寄付金募集の口座を作った。

国民新党を離党した亀井静香は新党について「5月末にはできる」と言い、また6月のたちあがれ日本の政治資金パーティで新党のお披露目があるのではないかと期待されたがなかった。

7月4日、たちあがれ日本は石原新党を視野にいれた「平成24年政策宣言」を発表した。自主憲法制定を最初に掲げ、尖閣諸島への自衛隊配備や財政への複式簿記の導入など、石原氏が進める政策を後押しする内容も盛り込む。政策宣言のキャッチフレーズは「日本力倍増!」。またこれに伴う会見で平沼は亀井との同一行動を否定し、石原も同様の対応を取るだろうと推測した。

7月24日、平沼は都内で講演し「今月ないし来月早々には石原氏が正式に態度を表明し、新しい流れが出てくるのではないか」との見通しを語るも8月3日の記者会見で石原は「こちらは新党よりも尖閣のほうで手一杯なんだ」と述べ、月内結成を断念する考えを明らかにした。また平沼の発言に対し「彼とそういう話をしたことがない。新党の問題について周りの人が言うのもありがた迷惑だ」と不快感を示した。

9月、国により尖閣諸島が購入され、尖閣購入問題に一定の決着がつく。20日、平沼は横浜市中区内で講演し、「38年間付き合ってきた仲だ。必ずできる」と明言した。10月12日、石原は記者会見で「中央官僚の国家支配をぶち壊さなきゃいけない。私は身を捨てて何でもやるつもりだ」と意欲を見せ、併せて「後は私の年齢(80歳)と健康だ」と近く健康診断の結果で最終判断する考えを示した。さらに翌日の13日には、新党「日本維新の会」を結成した橋下代表と石原と平沼が極秘会談[26]した。

10月25日、石原は午後3時から緊急記者会見を開き、東京都知事の辞任と新党結成の意向を示し、自身は東京ブロックでの比例出馬を表明した。50分の記者会見の後、たちあがれ日本の本部で全議員と対応を協議。30日の拡大支部長会議でたちあがれ日本を解党し、石原新党へ合流する[27][28]ことを確認した。たちあがれ日本の国会議員5人が合流することで国政政党要件を満たす[29]ことが確実になった。しかし10月30日の全国拡大支部長会議では「たちあがれ日本を解党して石原新党へ合流する」方針を撤回し「たちあがれ日本を改名して石原新党とする」方針を決定した。これは、たちあがれ日本を解党した場合、たちあがれ日本に対する政党交付金(12月分のみで約4300万円)を受け取れなくなるという事情がある[30]
太陽の党へ党名変更2010年代の第三極の離合集散

11月13日、「たちあがれ日本」を党名変更する形式を取って、新党「太陽の党」の結成を総務省に提出。石原慎太郎と平沼赳夫が共同代表を務め、「たちあがれ日本」所属の現職国会議員5名に石原が参加する形を採って結党した[31]。衣替えした新党には民主党を離党した中津川博郷らも合流する意向を示した[32]。結成にあたって石原は旧知の亀井静香に協力を持ちかけたが、政策理念が異なる橋下徹との連携を図ろうとする姿勢を批判されて新党参加を拒否されている[33]
他党との関係
民主党

「打倒民主党」を掲げているものの、民主党を含めた超党派協議を提言することが多かった。

平沼は自主憲法の制定や拉致問題の解決で自民党はもちろん、民主党内の保守派の協力が不可欠であるとして協力を呼びかけているほか、与謝野は財政健全化や消費税増税は民主党無くしてできないとして超党派協議を行う必要があると提言していた。

園田は、かつて自らが代表幹事や幹事長を務めた新党さきがけにて行動を共にした鳩山由紀夫(共に結党)、簗瀬進(共に結党)、菅直人前原誠司枝野幸男玄葉光一郎小沢鋭仁荒井聰奥村展三五十嵐文彦石田勝之小平忠正ら多くの民主党の議員とパイプを持つ。しかし、政策的にはすれ違う面も多い。

2010年12月24日、民主党の菅直人や岡田克也から連立政権参加の打診を受けていたことが明らかになり、対応が話題となったが、連立参加へ前向きなのは与謝野だけであり、他の所属議員は否定的な姿勢を見せた。27日、たちあがれ日本は正式に拒否した。与謝野は2011年1月13日に離党届を提出、受理され、無所属のまま菅第2次改造内閣に入閣した。

東日本大震災後の平成23年(2011年)6月2日には自民党や公明党とともに菅内閣に対し内閣不信任決議案を提出、これが否決され民主党内部から菅首相への早期退陣論が噴出すると、6月4日に仙谷由人安住淳から連立参加の打診を受けた。園田が8日に会見で明らかにしたものだが、園田は即答を避け「脱小沢」を提案したという。
自由民主党

たちあがれ日本を結成するために自民党を離党した与謝野は除名処分されたが、自民党内にもたちあがれ日本との共闘を唱える者は多かった。石破茂は、「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ」と述べ[34]、両党が協力する可能性に言及している。

安倍晋三創生「日本」の会長として、たちあがれ日本と同組織の選挙協力を第22回参議院議員通常選挙の際に実施した。なお、平沼自身も創生「日本」の最高顧問を務めている。また、谷垣禎一は与謝野と政策的に近く、自民党内で行動を共にすることが多かった。

2011年6月2日には菅内閣不信任決議案を公明党とともに三党で共同提出。2012年1月19日からは参議院において統一会派を組む[35]
公明党

たちあがれ日本と公明党は外国人参政権などを巡って対立しており、平沼や与謝野もしばしばこれを批判する。与謝野は過去に、「外国人参政権が成立しなかったのは、与謝野馨が真犯人だと冬柴鐵三(前衆議院議員)さんは思っているくらい」とも発言している。

平沼は保守派の中枢でもあることから、外国人参政権の問題をメディアでもよく口に出し、公明党や民主党を批判している。

また、与謝野は公明党と創価学会の関係を批判したこともあり、創価学会との関係は決して良好ではない。平沼も同様である(ただし、平沼、与謝野、園田は自民党時代は総選挙の際に公明党の推薦を受けていた)。

しかし、先述のようにたちあがれ日本は公明党など4党とともに緊急経済対策申し入れを行ったことからみられるように、協力可能な箇所は連携していた。
みんなの党

結党の際には代表の渡辺喜美から「立ち枯れ日本」と揶揄されたものの、それ以降は共同歩調を取っていた。経済対策ではたちあがれ日本とみんなの党は自由民主党、公明党、新党改革とともに緊急経済対策の申し入れも行っている。但し、みんなの党の「増税を考えるのは脱官僚をやってから」といった姿勢に関して、たちあがれ日本は選挙公約の中で逃げの政治と批判した。

たちあがれ日本の発起人の一人中川義雄の実兄で、代表の平沼がかつて秘書を務めていた中川一郎石原慎太郎東京都知事応援団長は、渡辺喜美が尊敬しているという自身の父・渡辺美智雄と政策や主張が近く、青嵐会で行動を共にし、交友もあった。

また、渡辺自身、平沼とともに日本会議のメンバーである。

2012年11月に維新の会と太陽の党が合流後、石原慎太郎はみんなの党に野党勢力結集のために合流を促したが実現には至らなかった。
国民新党

平沼は国民新党の亀井静香とは自民党時代に同じ派閥(志帥会)に属し、亀井の弟分だった上、政策的にも外国人参政権への反対、選択的夫婦別姓への反対、積極財政派で一致しているほか、ともに郵政造反組で自民党を追い出された仲である。


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