たちあがれ日本
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

6月18日には立候補することになった夫・中山成彬を応援するため、中山恭子が自民党を離党、たちあがれ日本に入党した(たちあがれ日本は、成彬とともに入党することを要望していた[20][21][22])。

選挙期間中には、比例代表公認候補の足高慶宣が、党の制止を振り切り尖閣諸島への上陸を試みようとしたとして、選挙期間中にもかかわらず比例名簿から削除されるという事態もあった。

比例区と選挙区で合計7議席以上の目標[23]には届かなかったものの、比例区で1議席(片山虎之助)を獲得した。この結果、参議院における党所属議員が改選前と同じ3名となり、7月16日に参議院において新党改革統一会派「たちあがれ日本・新党改革」を結成した。これにより、参議院では予算委員会での質疑に参加できるようになった。

この選挙でたちあがれ日本が獲得した比例区での票数は123万2207票であり、これは国民新党や新党改革を上回る結果である。

次期衆院選に備え、8月24日に中山成彬元衆院議員を宮崎県第1区支部長、西村眞悟元衆院議員を大阪府第17区支部長に任命した。また、同年10月には前回の衆院選で平沼グループから出馬した三宅博八尾市市議を大阪府第14区支部長に任命した。
与謝野の離党

2010年12月に菅直人らから連立政権参加の打診を受けたが、党内でそれに賛成したのは共同代表である与謝野馨のみであった。党内で孤立した与謝野は、2011年1月13日に離党届を提出、受理された。直後に無所属として菅第2次改造内閣内閣府特命担当大臣経済財政政策男女共同参画少子化対策)兼社会保障・税一体改革担当大臣として入閣した[24]。この与謝野の判断に対して園田博之は、民主党政権打倒を掲げて「たちあがれ日本」をつくったときの立党精神を置き忘れてしまったのではないかと批判した[25]
石原新党

2012年1月18日、参議院においてたちあがれとの政策の隔たりがあった新党改革との統一会派を解消し、自民党と共に「自由民主党・たちあがれ日本・無所属の会」を結成した。

1月25日に、石原慎太郎東京都知事、国民新党の亀井静香、たちあがれ日本の平沼赳夫で3月中にも新党を結成するとの報道が流れた。当初、平沼は「亀井さんの一人芝居」と否定してきたが、石原新党結成を目指した発言をしていくようになる。平沼は1月25日の記者会見で保守結集を目指し、「自民、民主の一部に働きかけ、70?80人を糾合することを目標にしたい」と語り自民党の反発を受けた。自民党の谷垣禎一は27日夜、「自民党からも引っ張ってこようというような失礼な話にコメントする必要もない」と不快感を示した。31日、石原伸晃も「人の財布に手突っ込むな」と反発した。

3月7日、平沼は記者会見で「都知事は、予算などで都議会が開かれているので、3月までに新党をつくるのは現実、考えられない問題だ」として当初目指していた3月結成を断念。「謀は密なるものを旨とすることだ。作業は深く静かに潜行してやっていかなければならない」とも述べて引き続き新党結成を目指す姿勢を鮮明にする。

石原は4月12日、訪米前に成田空港で記者団の取材に応じ、新党構想について「一回ないことにする。白紙に戻す。やる必要があるならばおれ一人でも台本づくりをやる」と新党構想を練り直しを表明する。その後、訪米先で都による尖閣諸島購入を表明。たちあがれ日本もこれを支援するため、尖閣諸島購入の為の寄付金募集の口座を作った。

国民新党を離党した亀井静香は新党について「5月末にはできる」と言い、また6月のたちあがれ日本の政治資金パーティで新党のお披露目があるのではないかと期待されたがなかった。

7月4日、たちあがれ日本は石原新党を視野にいれた「平成24年政策宣言」を発表した。自主憲法制定を最初に掲げ、尖閣諸島への自衛隊配備や財政への複式簿記の導入など、石原氏が進める政策を後押しする内容も盛り込む。政策宣言のキャッチフレーズは「日本力倍増!」。またこれに伴う会見で平沼は亀井との同一行動を否定し、石原も同様の対応を取るだろうと推測した。

7月24日、平沼は都内で講演し「今月ないし来月早々には石原氏が正式に態度を表明し、新しい流れが出てくるのではないか」との見通しを語るも8月3日の記者会見で石原は「こちらは新党よりも尖閣のほうで手一杯なんだ」と述べ、月内結成を断念する考えを明らかにした。また平沼の発言に対し「彼とそういう話をしたことがない。新党の問題について周りの人が言うのもありがた迷惑だ」と不快感を示した。

9月、国により尖閣諸島が購入され、尖閣購入問題に一定の決着がつく。20日、平沼は横浜市中区内で講演し、「38年間付き合ってきた仲だ。必ずできる」と明言した。10月12日、石原は記者会見で「中央官僚の国家支配をぶち壊さなきゃいけない。私は身を捨てて何でもやるつもりだ」と意欲を見せ、併せて「後は私の年齢(80歳)と健康だ」と近く健康診断の結果で最終判断する考えを示した。さらに翌日の13日には、新党「日本維新の会」を結成した橋下代表と石原と平沼が極秘会談[26]した。

10月25日、石原は午後3時から緊急記者会見を開き、東京都知事の辞任と新党結成の意向を示し、自身は東京ブロックでの比例出馬を表明した。50分の記者会見の後、たちあがれ日本の本部で全議員と対応を協議。30日の拡大支部長会議でたちあがれ日本を解党し、石原新党へ合流する[27][28]ことを確認した。たちあがれ日本の国会議員5人が合流することで国政政党要件を満たす[29]ことが確実になった。しかし10月30日の全国拡大支部長会議では「たちあがれ日本を解党して石原新党へ合流する」方針を撤回し「たちあがれ日本を改名して石原新党とする」方針を決定した。これは、たちあがれ日本を解党した場合、たちあがれ日本に対する政党交付金(12月分のみで約4300万円)を受け取れなくなるという事情がある[30]
太陽の党へ党名変更2010年代の第三極の離合集散

11月13日、「たちあがれ日本」を党名変更する形式を取って、新党「太陽の党」の結成を総務省に提出。石原慎太郎と平沼赳夫が共同代表を務め、「たちあがれ日本」所属の現職国会議員5名に石原が参加する形を採って結党した[31]。衣替えした新党には民主党を離党した中津川博郷らも合流する意向を示した[32]。結成にあたって石原は旧知の亀井静香に協力を持ちかけたが、政策理念が異なる橋下徹との連携を図ろうとする姿勢を批判されて新党参加を拒否されている[33]
他党との関係
民主党

「打倒民主党」を掲げているものの、民主党を含めた超党派協議を提言することが多かった。

平沼は自主憲法の制定や拉致問題の解決で自民党はもちろん、民主党内の保守派の協力が不可欠であるとして協力を呼びかけているほか、与謝野は財政健全化や消費税増税は民主党無くしてできないとして超党派協議を行う必要があると提言していた。

園田は、かつて自らが代表幹事や幹事長を務めた新党さきがけにて行動を共にした鳩山由紀夫(共に結党)、簗瀬進(共に結党)、菅直人前原誠司枝野幸男玄葉光一郎小沢鋭仁荒井聰奥村展三五十嵐文彦石田勝之小平忠正ら多くの民主党の議員とパイプを持つ。しかし、政策的にはすれ違う面も多い。

2010年12月24日、民主党の菅直人や岡田克也から連立政権参加の打診を受けていたことが明らかになり、対応が話題となったが、連立参加へ前向きなのは与謝野だけであり、他の所属議員は否定的な姿勢を見せた。27日、たちあがれ日本は正式に拒否した。与謝野は2011年1月13日に離党届を提出、受理され、無所属のまま菅第2次改造内閣に入閣した。

東日本大震災後の平成23年(2011年)6月2日には自民党や公明党とともに菅内閣に対し内閣不信任決議案を提出、これが否決され民主党内部から菅首相への早期退陣論が噴出すると、6月4日に仙谷由人安住淳から連立参加の打診を受けた。園田が8日に会見で明らかにしたものだが、園田は即答を避け「脱小沢」を提案したという。
自由民主党

たちあがれ日本を結成するために自民党を離党した与謝野は除名処分されたが、自民党内にもたちあがれ日本との共闘を唱える者は多かった。石破茂は、「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ」と述べ[34]、両党が協力する可能性に言及している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef