田代まさしが不祥事を起こした際も軍団入りの情報が出た。だが、田代が実刑判決を下された後に、たけしが「あんな野郎に関わりたくはない」とコメントとしたと報じられて、田代の軍団入りは実現していない。ただし、インタビューでは、車椅子の国会議員である八代英太をもじった田代英太という芸名で車椅子に乗せようとメールを送ったが、田代に断られたと話している[48]。
軍団で大きな不祥事にはフライデー襲撃事件(ラッシャー板前・井手らっきょ・つまみ枝豆は不参加)がある。
それ以前には水島新太郎(漫画家・水島新司の息子)が芸能界を志向した際に「軍団で修行したらどうか」と提案したのが始まりである。芸名の候補として「チーチーバエミズシマ」というのも上がったが、軍団に止められた。その後、『おぼ土山』『おぼつちやま』という芸名でたけし軍団に所属[10]。軍団を離れた後は、たけしの古巣である太田プロに移籍し、現在は水島プロに移籍している。
エピソード
たけしが弟子を取る際は、弟子志願者がどういう人物か、どういう芸風かなどは一切見ず、その時期その時期で必要な頭数を確保するという場合が多い。元プロ野球選手の亜仁丸レスリーや、入団しなかったが、後述する間寛平の軍団入りが認められたのも、このような経緯がある。一軍には草野球の助っ人から軍団入りしたメンバーが井手のほか数人存在した[50]。
初期の軍団員の大半は、たけしの付き人兼運転手を務めており、たけしがピン芸人としてのピークを迎えていた1980年代は多忙さから過酷を極めたといい、枝豆は太腿が青タンだらけになったという[51]。
大阪の吉本新喜劇で活躍した間寛平が、アメマバッチを10万個製作したことにより最大6千万円の借金を背負った時に吉本興業を辞めると宣言して上京した際(実際は吉本は退社しておらず、大阪吉本から東京吉本に移籍したのみである)、たけし、寛平共通の友人であった島田洋七にたけしを紹介してもらい、酔った勢いでたけし軍団入りを志願したということがあった[52]。
たけしは番組で、軍団員にツッコミを入れる際に、何かとつけて「馬鹿野郎!」もしくは「この野郎!」という口癖があり、よくたけしのモノマネ芸や、北野映画で出演者のセリフとして、頻繁に利用されている[53]。元々はたけしの師匠である深見千三郎の口癖で、たけしも同様に深見から、何かとつけて「馬鹿野郎!」もしくは「この野郎!」と言われていた[54]。このエピソードは、たけしの相方であるビートきよしがラジオで語っている。
たけし軍団では師匠であるビートたけしをバカにされることは禁忌であり、2011年7月24日に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』にて三又又三がグレート義太夫と井手らっきょに中途半端なたけしのものまねを続けた三又に対し2人は激怒し、スタジオは騒然とした。また、2021年7月21日に放送された『水曜日のダウンタウン』では鬼越トマホークの喧嘩の下りを食らわれるドッキリにてつまみ枝豆が新人マネージャー役に「うるせぇなぁ!たけしの話じゃなくて自分の話で笑い取れよ!」と言われた際、枝豆は「おめぇ俺に言ってんのか?」「小僧もういっぺん言ってみろ!」などと新人マネージャーに対して怒り、「まぁいいや百歩譲って許してやるよ。でもよ、俺の前でよ『たけし』って言うな。『たけしさん』だろコラァ!」とビートたけしに対しての失礼は許さない姿を見せた[55]。
著書
ツノだせヤリだせ たけし軍団物語(太田出版・1986年7月)
12月10日から3月27日まで僕たちが考えたこと 作品集(太田出版・1987年6月)- フライデー襲撃事件の謹慎期間中に軍団員が書いた作品集。ダンカンはバイク小説、義太夫はロック小説、東は幻想小説、参加しなかったラッシャーはその理由となった痔の手術の体験談を執筆した。
我が愛と青春のたけし軍団(双葉社・2012年)- ガダルカナル・タカ監修、たけし軍団編。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 但し、ザ・ドリフターズを意識して結成されたとする説もある。実際、たけしは「たけし軍団はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話した[要出典]。
^ 舞台に参加した7人(ガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、ダンカン、ラッシャー板前、グレート義太夫、松尾伴内、柳憂怜)、体調不良で舞台を降板した井手らっきょ、特別ゲストとしてそのまんま東と大森うたえもん[13][14]。
出典^ a b 「おいらの自分史」『新潮45別冊 コマネチ! ビートたけし全記録』新潮社、1998年、p.306.
^ a b 浅草キッド『キッドのもと』学研、2010年、p.96
^ 浅草キッド『キッドのもと』学研、2010年、p.97
^ ビートたけし『場外乱闘』太田出版、1992年、p.132
^ ビートたけし『こんな時代に誰がした! 場外乱闘2』太田出版、1993年、p.93
^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、pp.58-59
^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、p.199
^ 僕は実はたけし軍団第一号だった 本当の話 歌う放送作家 植竹公和 2006年7月26日
^ ブラザー・コーン、たけし軍団第1号断っていた「東の位置に僕がいた」 - スポーツ報知 2017年7月21日
^ a b たけし軍団『ツノだせヤリだせ たけし軍団物語』太田出版、1986年、「軍団紀元前」の章
^ “水道橋博士、「殿に株を分けていただいたのは8人」騒動について語る” (日本語). スポーツ報知. (2018年4月4日). https://hochi.news/articles/20180403-OHT1T50311.html 2018年4月8日閲覧。
^ “なべやかんオフィス北野を退社、たけし軍団は辞めず - お笑い : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201803310000370.html 2018年4月8日閲覧。
^ “たけし軍団、約20年ぶりに結成メンバー10人が集結 40周年記念舞台に東国原英夫と大森うたえもんが合流”. サンケイスポーツ (産経デジタル). (2023年3月12日). https://www.sanspo.com/article/20230312-3EPW5ER22NMXNFUZWAWS3TTIVM/ 2023年3月31日閲覧。
^ たけし軍団TV (2023-03-18), 【完全ドキュメンタリー】たけし軍団結成40周年記念公演で奇跡の10人全員集合!【奇跡の1日】, https://www.youtube.com/watch?v=vXXpnZmZeWw 2023年3月31日閲覧。
^ 森昌行『天才をプロデュース?』新潮社、2007年、p.19。
^ a b 『たけし軍団物語』p.137。
^ a b c アサヒ芸能編集部「我々はこうして殿の下に集った たけし軍団40周年ドキュメント」徳間書店『アサヒ芸能』2023年5月18日特大号 152‐157頁
^ a b たけし軍団「バカ殿言行録」『コマネチ』p.140。
^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、p.56
^ a b たけし軍団『ツノだせヤリだせ たけし軍団物語』太田出版、1986年、第2章