たけし軍団
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たけし軍団大阪GIGABCラジオ[43]ガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、井手らっきょ、浅草キッド

草野球チーム「たけし軍団」

たけし軍団の結成後、草野球チーム「たけし軍団」としても活動。現在も神宮草野球場での「茜リーグ」に所属している。『スポーツ大将』では、アマチュア最強とも噂される強豪でノンプロ選手が参加する「東京ファイターズ」や、業界最強と言われたアパレルブランドNICOLEのチームに勝利するなど強い相手ほど勝負強くなる特性を見せた。

助っ人には当時無名であった、とんねるずも参加しており、これをきっかけに、とんねるずはたけしとの交友が深まり、同時にたけしを尊敬するようになる[44]。他にも、たけしとの親交が深かった逸見政孝の息子である逸見太郎も、軍団員の草野球に参加している[45]

特筆すべきは1991年シーズンオフの11月23日阪神タイガースファン感謝デーにて阪神の二軍と対戦して最終回(この試合では特別ルールで6回まで)に逆転勝利したことである。「たけし軍団にも負けた阪神」と当時の阪神の弱さ(なおこの年の阪神はリーグ最下位だった)を象徴するエピソードになっている。翌1992年には千葉ロッテマリーンズのファン感謝デーにも招聘されて「非公式パリーグ入れ替え戦」の名目でマリーンズと対戦し(この年のマリーンズがリーグ最下位だったため)、2-1でたけし軍団が勝利を収めている。

実はハンディキャップとして使用球は軟式球を使用していたが後に、ガダルカナル・タカが試合後に練習場を通ると軟球が用意されていてプロの対策は万全だった。他にもヤクルト近鉄にも挑戦を出していて練習試合でヤクルトにも勝利し、結局プロ相手には無敗だった[46]

スクウェア製作のゲーム「日米間プロ野球 FINAL LEAGUE」(2002年)には、たけしが監督として登場し、軍団員(井手らっきょ・つまみ枝豆など)も選手として登場する。
軍団内ユニット

1986年、そのまんま東・大森うたえもん・つまみ枝豆・ガダルカナル・タカの4人でユニット「たけし軍団COUNTDOWN」を組みレコード・デビュー。以下の作品を発表した。
シングル


BON・BON・BON(1986年11月1日)

CONFUSION(1987年2月21日)

一枚の写真(1987年11月21日)

アルバム


COUNT DOWN 1st(1987年3月21日)

俺たちゃアイドル(1987年12月1日)※「おぼっちゃま」の楽曲を含む

たけし軍団COUNT DOWNのすべて(1988年11月21日)※「おぼっちゃま」の楽曲を含む

OH!傑作 ビートたけし&たけし軍団COUNT DOWN BEST SONGS(1989年10月21日)※ビートたけしの楽曲を含む

COUNT DOWN 1st+2(2008年5月21日)

なお、その他のメンバーは音源リリースは見送られたものの、松尾伴内・ダンカン・柳ユーレイ・ラッシャー板前井手らっきょで「たけし軍団IMAGEDOWN」が存在していた。

堀越学園高校の同級生である水島新太郎とサード長嶋は「おぼっちゃま」として思わしい結果ではないが本格的な歌手活動を行い(発表した作品については水島新太郎#ディスコグラフィを参照)、コンサート専用ユニットとして、キドカラー大道・誰なんだ吉武の「ザ・ボーヤ」、大阪百万円・古田古・グレート義太夫の「The KITANAI」があった。
不祥事タレントのたけし軍団での再出発

過去に替え玉受験で問題になったなべおさみの息子のなべやかんをたけし軍団に迎え入れたことで[47]、タレントなど(特にお笑い系)による不祥事が起きると「“たけし軍団”入りで再出発か」というネタのような話がよく出てくるのも特徴である[48][49]。軍団ではないがスキャンダルを抱えた山本モナがオフィス北野に在籍していたことから、たけし自身、「『たけし再生工場』の評判は、芸能界じゅうに轟いてる」と語っている[47]

田代まさしが不祥事を起こした際も軍団入りの情報が出た。だが、田代が実刑判決を下された後に、たけしが「あんな野郎に関わりたくはない」とコメントとしたと報じられて、田代の軍団入りは実現していない。ただし、インタビューでは、車椅子の国会議員である八代英太をもじった田代英太という芸名で車椅子に乗せようとメールを送ったが、田代に断られたと話している[48]

軍団で大きな不祥事にはフライデー襲撃事件ラッシャー板前井手らっきょつまみ枝豆は不参加)がある。

それ以前には水島新太郎(漫画家・水島新司の息子)が芸能界を志向した際に「軍団で修行したらどうか」と提案したのが始まりである。芸名の候補として「チーチーバエミズシマ」というのも上がったが、軍団に止められた。その後、『おぼ土山』『おぼつちやま』という芸名でたけし軍団に所属[10]。軍団を離れた後は、たけしの古巣である太田プロに移籍し、現在は水島プロに移籍している。
エピソード

たけしが弟子を取る際は、弟子志願者がどういう人物か、どういう芸風かなどは一切見ず、その時期その時期で必要な頭数を確保するという場合が多い。元プロ野球選手の
亜仁丸レスリーや、入団しなかったが、後述する間寛平の軍団入りが認められたのも、このような経緯がある。一軍には草野球の助っ人から軍団入りしたメンバーが井手のほか数人存在した[50]

初期の軍団員の大半は、たけしの付き人兼運転手を務めており、たけしがピン芸人としてのピークを迎えていた1980年代は多忙さから過酷を極めたといい、枝豆は太腿が青タンだらけになったという[51]

大阪の吉本新喜劇で活躍した間寛平が、アメマバッチを10万個製作したことにより最大6千万円の借金を背負った時に吉本興業を辞めると宣言して上京した際(実際は吉本は退社しておらず、大阪吉本から東京吉本に移籍したのみである)、たけし、寛平共通の友人であった島田洋七にたけしを紹介してもらい、酔った勢いでたけし軍団入りを志願したということがあった[52]

たけしは番組で、軍団員にツッコミを入れる際に、何かとつけて「馬鹿野郎!」もしくは「この野郎!」という口癖があり、よくたけしのモノマネ芸や、北野映画で出演者のセリフとして、頻繁に利用されている[53]。元々はたけしの師匠である深見千三郎の口癖で、たけしも同様に深見から、何かとつけて「馬鹿野郎!」もしくは「この野郎!」と言われていた[54]。このエピソードは、たけしの相方であるビートきよしがラジオで語っている。

たけし軍団では師匠であるビートたけしをバカにされることは禁忌であり、2011年7月24日に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』にて三又又三がグレート義太夫と井手らっきょに中途半端なたけしのものまねを続けた三又に対し2人は激怒し、スタジオは騒然とした。また、2021年7月21日に放送された『水曜日のダウンタウン』では鬼越トマホークの喧嘩の下りを食らわれるドッキリにてつまみ枝豆が新人マネージャー役に「うるせぇなぁ!たけしの話じゃなくて自分の話で笑い取れよ!」と言われた際、枝豆は「おめぇ俺に言ってんのか?」「小僧もういっぺん言ってみろ!」などと新人マネージャーに対して怒り、「まぁいいや百歩譲って許してやるよ。でもよ、俺の前でよ『たけし』って言うな。『たけしさん』だろコラァ!」とビートたけしに対しての失礼は許さない姿を見せた[55]

著書

ツノだせヤリだせ たけし軍団物語(
太田出版・1986年7月)

12月10日から3月27日まで僕たちが考えたこと 作品集(太田出版・1987年6月)- フライデー襲撃事件の謹慎期間中に軍団員が書いた作品集。ダンカンはバイク小説、義太夫はロック小説、東は幻想小説、参加しなかったラッシャーはその理由となった痔の手術の体験談を執筆した。

我が愛と青春のたけし軍団(双葉社・2012年)- ガダルカナル・タカ監修、たけし軍団編。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 但し、ザ・ドリフターズを意識して結成されたとする説もある。実際、たけしは「たけし軍団はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話した[要出典]。
^ 舞台に参加した7人(ガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、ダンカン、ラッシャー板前、グレート義太夫、松尾伴内、柳憂怜)、体調不良で舞台を降板した井手らっきょ、特別ゲストとしてそのまんま東と大森うたえもん[13][14]


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