たけし軍団
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別の機会には、草野球のチームを組みたかっただけとも語っており[22]、当初は8人体制を取っていた(後にグレート義太夫と井手らっきょが加入して10人体制に移行)。実際にガダルカナル・タカ井手らっきょらは草野球の助っ人から軍団入りしている。

1984年2月からたけし司会の『スーパージョッキー』(日本テレビ)の企画「THEガンバルマン」に出演し[16]、肉体的・精神的苦痛を伴うさまざまなゲームに身体を張って挑む姿が笑いを呼び人気を得た[23]。「身体を張って笑いを取る」路線は、後の『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)まで一貫している(ただし、亜仁丸レスリーや、ゾマホン・ルフィンのように、文化人的な軍団員は体を張って笑いを取る芸には参加しない)。なお、当時の軍団員はほとんどが20代だったこともあり、「Duet」などの雑誌に取り上げられ、追っかけが存在するなど一部でアイドル的な人気を持っていた[24]。これを受けて軍団内でユニットを設けて1986年には歌手デビューもしている(たけし軍団#軍団内ユニットを参照)。1980年代半ばになっても弟子志願者は絶えず、1985年頃にはたけし軍団の二軍として「たけし軍団セピア」、1986年には三軍として浅草キッドブラザースが誕生。

たけしの番組でのスーパーサブ的な役割を担っていたたけし軍団だったが、1986年1月には冠番組たけし軍団!ヒット&ビート』(テレビ朝日)を持つに至り、また同年5月からスタートした『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)の出演でたけし軍団の人気は最盛期を迎える。しかし、同年の12月のたけしの「フライデー襲撃事件」にたけし軍団のうち11人が参加したことにより『ヒット&ビート』は打ち切られる

フライデー襲撃事件では、たけし軍団は1987年3月に不起訴処分が決定[25]。謹慎が解けて以降は、たけし軍団としての活躍の場は再びたけしの番組のスーパーサブ的存在へと戻り、日本テレビ『お笑いウルトラクイズ』、『スーパージョッキー』、フジテレビ深夜のたけし枠の番組(『北野ファンクラブ』?『たけしのコマ大数学科』)、テレビ朝日『朝までたけし軍団』シリーズ、TBS『ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV』等に出演。ガダルカナル・タカが橋本志穂と結婚した際には『たけし軍団のハワイ大家族旅行』(TBS、1994年1月3日)という特番が放送された。

北野武が監督した柳ユーレイ主演の映画『3-4X10月』は、当初はたけし軍団解散記念映画として企画された。しかし映画公開の1990年時点ではまだメンバーが自立できないという判断によりこのときは解散が見送られた[26]

1999年3月に『スーパーJOCKEY』が終了して、たけしと軍団が毎週のように顔を合わせる仕事が終わり、加えて軍団のメンバーが所帯を持つようになって、たけしが頻繁に誘うこともなくなった[27]

2000年代以降はたけしが、教養番組など、堅めの番組を多く持つようになり、たけし軍団のメンバーの方向性もバラバラとなって軍団として集まって出演する機会が年毎に減っていった。そんな中、たけしが軍団という呼び方もやめて、たけし軍団も卒業にしようと言い出し、2004年10月に『朝までたけし軍団』の番組中でたけし軍団の解散が発表された[28]

実際に2005年1月に『朝までたけし軍団』が放送された際は『朝まで元たけし軍団』という番組名で、解散した「元たけし軍団」の番組として放送された[29]

しかしこの解散発表は、企画を練っているうちにテレビでのお笑いの企画のような形となったもので、周囲からも本気での解散と受け取られておらず、軍団当人たちも解散とは思っていないとガダルカナル・タカが明かした[28]。『朝まで元たけし軍団』のタイトルでの放送も1回きりで2005年9月放送の第7回からは『朝までたけし軍団』にタイトルが戻された[30]

グレート義太夫も2016年1月のSMAP解散の報に触れた際、「絶対殿が『たけし軍団解散』とか言い出しそうだよね(笑)」と軍団が存続しているという前提でのつぶやきをTwitterで発している[31]

なお、2007年の政界転身時にたけし軍団から脱退してそのまんま東の芸名を返上し、タレント活動再開後もオフィス北野に復帰しなかった元メンバーの東国原英夫は2016年12月23日にバラエティ番組『バイキング』で、たけし軍団は既に解散したと主張している。その際、軍団としての仕事の減少による自然解散という前述の理由が説明された[32]
軍団の特徴

軍団員はたけしを「師匠」でなく「殿」と呼ぶ。師匠と呼ばれることに抵抗を感じていたたけしが、萩本欽一が大将と呼ばれていることも考えて[33]1984年5月から「師匠」と呼んだ場合に罰金を取るようになり、「殿」と呼ばせることをたけしが決めた[34]。当初はバカ殿と呼ばせていた[18]。ただし、トーク番組で軍団員ではない司会者等の第三者に対しては「たけしさん」と呼んだり、芸能界引退後の東国原英夫は政治家として『TVタックル』などでたけしと共演した際は「師匠」と呼んでいる。

一軍であるたけし軍団内部に上下関係はなく横並びの関係で、軍団の形が出来た後に加入したグレート義太夫が敬語で喋っていたが、それ以外は年齢差や芸歴に関係なくタメ口だった[35]。しかし軍団の人数が10人になり、さらに希望者が殺到するようになったため、ふるい落とすために希望者はダンカンの弟子の形で受け入れることとし、以後はダンカンが極端に上下関係を強いて、そこで認められた者のみがメンバーとして受け入れられるようになった[36][37]

たけし軍団にリーダーは存在しないが[38]、初期には太田プロ所属のすがぬま伸が隊長格の役割を果たしていた[39]

年に一回、事務所(軍団)内で行われる酒席において年功序列が逆転する宴が催される。これによりたけしが最底辺の芸人となり、軍団メンバーからは(下部から上部へ)アゴでコキ使われ、雨あられの説教を受けるという逆転現象で盛り上がる余興がある。この宴会は、たけしが考案した宴会であり、師匠、弟子の垣根を取り払っての宴会は、元々、たけしの師匠である深見千三郎が、自分の事そっちのけで、弟子のたけしに酒を薦めるなど、師匠、弟子関係なく楽しむことを目的とした宴会を考えていたことを実行したものである。

先輩の軍団員は後輩の軍団員を居候させるという方針を取る。これは、まだ芸人として生計が立てられない後輩の軍団員の保護策として機能している。このような先輩が後輩の面倒を見る制度は、たけしが師匠の深見に非常に気に入られ、たけしが深見から破門されても、深見がたけしの面倒を見るなど、芸人を長く続けるようにすべきという意図があった(たけしと深見との師弟関係及び、深見がたけしを破門した経緯については、ビートたけし及び深見千三郎を参照)。一例としてダンカンは結婚するまで、最大で6人の軍団員を居候させていた。なお、軍団員が結婚した場合は、後輩軍団員を居候させることは免除され、別の軍団員の家に預けられる[20]

変な芸名を付けられる。たけし曰く、芸人としてやっていく覚悟があるのかというたけし流の踏み絵の意図であり[40]、同時に自分を安易に頼ってくる者を門前払いする脅しの意味があるのだという[41]。ただし軍団員全員がたけしによる命名というわけではない。たけしとともに軍団に芸名の名付け親になっていた放送作家高田文夫は、変な名前をつけるのは落語立川流立川談志を見習っているからと語っている[42]

たけしが出演していない番組で、軍団員が多く出演する番組としては、『オールスター感謝祭』(島田紳助今田耕司が司会。たけしも乱入という形で出演経験あり)があり、そのまんま東とガダルカナル・タカが総合優勝経験がある。たけしの出演している番組で共演する機会の多い人物としては、たけしの相方のビートきよし、放送作家の高田文夫、たけしの友人である島田洋七と言った人物と、たけしが出演しない番組では紳助(2011年に芸能界引退)、タモリ明石家さんまといったたけしとは比較的共演の多い人物と共演する傾向がある。
北野映画への出演

軍団員の大半はたけしの映画監督作品(本名の北野武名義)に出演している。特筆すべき作品として

3-4X10月」(前述のように当初は軍団解散記念映画だった。軍団員が多く出演しており、軍団員のほとんどが本名名義で出演している)

みんな?やってるか!」(軍団員が多く出演している。なお、当作品は日本国内では、「ビートたけし」監督名義による映画である)

座頭市」(脇役を中心に軍団員が多く出演している)


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