五年映画を撮っていなかった工藤栄一監督の信奉者が、東映に工藤監督に映画を撮らせろと突き上げ、東映がGOサインを出した[11]。工藤復活のアドバルーンを上げるため、当時ぴあと並んで若者必携の情報誌『シティロード』の主催で、1979年4月21日から一週間、五反田東映で「帰って来た映像の刺客!!工藤栄一監督名作上映会」が催されるなど気運を盛り上げた[11]。当時の大宣伝作戦による大作主義で、自ら首を絞め、アップアップの邦画界にあって、東映としても映像の刺客工藤栄一に沈滞ムードを打ち破る切っ掛けを期待した[11]。工藤は「深作さんは深作さん。私は私です。かつての『仁義なき戦い』とは全く違ったダイナミックな青春ヤクザ映画に仕上げて見せます」と決意を述べた[11]。また「『仁義なき戦い』というタイトルでずっとやってきたから、タイトルは仕方ないが、『仁義なき戦いシリーズ』に出ている俳優さんはなるべく使わないようにしたい」という条件を出した[9]。普通の人間でヤクザの精神を持った奴の話なんで、手慣れたヤクザものをやりたくないという思いがあった[9]。 このためキャスティングは東映ヤクザ映画をあまり経験したことのない人でやろうと決まり、メインキャストは、それまでヤクザ映画に出たことのない役者が揃った[9]。但し小池朝雄と成田三樹夫は工藤の希望[9]。それ以外の松方弘樹らベテラン俳優は東映サイドのキャスティング[9]。工藤が「若い人に見てもらいたい。そのためにも芸の完成した人でなく、中には君は俳優に向いてないよ」という人をキャスティングした[8][12]。根津甚八、宇崎竜童を選んだのは工藤[9]。根津は状況劇場を退団後の初仕事[9][12]。本格的映画は『玄海灘』についで二本目[12]。撮影半ばのインタビューで、根津は「舞台はハッキリ言ってやる気はない。当分は映画に専念するつもりだ。最近、自分でも映画向きかなと思ったりするしね。映画はさまざまなアングルを使い、いろんな冒険ができる。その部分に惹かれているんだ」[12]「状況劇場退団の話はしたくない。映画を見てもらい、あ、根津はこういうのをやりたかったのかと理解してもらうしかない。いい作品で大きな監督とやれるのは幸せだ」などと映画の虜になったと話した[12]。工藤は「根津はこれまでの役者とは違うね。勘がいいし発想が面白い。これからはいい映画に出て、いい思いをして欲しい。あと二週間、ボクもいじめるよ」などとエールを送った[12]。宇崎竜童は、大学時代に阿木燿子と渋谷東映か新宿東映で、東映ヤクザ映画の99パーセントは観たという東映映画の大ファン[13]。宇崎は『曽根崎心中』の演技を東映から評価され、1978年晩秋に出演オファーされた[14]。重要な役どころと聞かされ異存があるわけなく[14]、衣装合わせで東映京都撮影所(以下、東映京都)に初めて行ったら、そこに宇崎をスカウトした松崎しげるがいてバツが悪かったという[14]。泉谷しげるは『仁義なき戦い』と工藤監督の大ファンで[15]、自ら工藤に「出してくれ」と売り込みに来たもの[9]。萩原健一もクランクイン後に、工藤に「出してくれ!」と押しかけ[9]、「お前の役はない」と言っているのにしつこいので、工藤が急遽シナリオを書き直して萩原の役を作った[9]。松崎しげるの出演経緯は分からないが、その後松崎が役者づく切っ掛けになった作品である。 原作クレジットの飯干晃一はチンピラ三人という設定のみ出した[7]。ほぼ松田寛夫と神波史男のオリジナル脚本[7]。ローカルの血縁・地縁で固まっている小さな組の話で、その中にいる若い奴の戦い方が話の軸だった[7]。神波は2012年の『映画芸術』でのインタビューでは「詳しいことは覚えていませんが、会社から若いヤクザの話にして欲しいという提示があったと思います。それで、最初に『行儀見習い』という制度を眼目にしたわけです。ヤクザの大組織は傘下に何層もの下部組織がピラミッド型にできてるわけでしょ。で、下部でヤクザとして有望な若者を上部の比較的大きな組織に呼び集めて修行させるわけです。勿論タダで、実質的にはこき使われるらしいんです。そういう中で、別々の組の若者同士が友情を育むわけです。松田と一緒に資料を集めまくったんですが、無名の出版社からヤクザに関する色々な本が出てまして、その中に小さな組の組長の一代記があったんです。
キャスティング
脚本