映画撮影の経験の少ないオーティスを考慮して、アシュビーは撮影を敢えて時系列順に行い、更にオーティスの人柄を脚本に反映させた[14]。従って映画はノーフォークとポースマツという二つの場所に使われたトロントを除き、全て映画の流れと同じ経路で撮影を行っていった[15]。まだ若手だったクエイドは評価を望んで自分なりの演技を試行錯誤したが、普段は演技指導に厳しいアシュビーは珍しく演技プランを俳優に委ねた[15]。 撮影監督はハスケル・ウェクスラーが勤める予定だったが組合の関係から参加できず[13] ゴードン・ウィリスやネストール・アルメンドロスらも同様に撮影に加われなかった[15]。苦肉の策としてアシュビーは撮影助手のマイケル・チャップマンを撮影監督に昇格させ、彼は独特の撮影法で映像にドキュメンタリー風の雰囲気を与えた[15]。またアシュビーはシーン撮影の際にニコルソンにファインダーを覗かせて撮影の範囲を事前に教えていたので、彼はこれを生かして映像に写りこむことが出来た[16]。役者達はこうしたアシュビーらの努力を賞賛するコメントを残している[17]。 撮影が完了した後、アシュビーは編集に映像を回して場面のカットなどを行わせた[18]。だが出来上がった物に不満を抱いたアシュビーは編集を解任して、自分で編集を行うべきか悩んだという。エアーズは豊富な経験を持つ編集者ロバート・ジョーンズを後任に推薦した[18]。ジョーンズは精力的に仕事をこなして、一ヵ月半で最初の編集版(4時間)を製作した。アシュビーは彼の仕事振りを信頼して、編集作業を全面的に委任した[19]。残りの編集はアシュビー宅で行われたが、一つ一つの場面に彼が悩んだ事で完成版までには非常に長い時間が掛かった[20]。編集作業の間、アシュビーは一切コロムビア社の連絡を無視し続けた。コロムビア社はその度に更に上役に連絡を行わせたが、全く取り合ってもらえなかった.[20]。ロンドン滞在中、アシュビーはピーター・セラーズと話している時に、コロムビアの催促にうんざりしたジョーンズからの電話を受け取った[21]。スタジオはコロムビア社がフィルムを引き取りに来ている事をジョーンズに告げ、彼はどうにかスタジオを宥めてフィルムを手元に置いていた[21]。またタウンはしばしばアシュビー宅を訪れて編集作業を見ていたが、映画のテンポに注文を付ける事があった[20]。コロムビア社はアシュビーが使ったジャンプカットの演出を批判した[22]。またスタジオは作品中で使われた罵倒の多さを心配していた。当時スタジオは財政難にあり、ヒットを飛ばさなければならない状態だった[21]。 様々な過程を辿りつつ1973年8月に映画は完成したが、罵倒文句の存在を注視しつつもアメリカ映画業協会
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