1981年、現在の妻・上田みゆきと結婚。互いに子連れでの再婚となり、そのときの苦労は1986年に出版された『子連れ再婚の片道切符』に描かれている。
1983年に劇場用アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト 完結編』が公開され、関連楽曲を発表して以降は数年にわたり楽曲のリリースを一時休止[15]し、俳優業やナレーター、洋画の吹き替えを中心に活動をシフトしていく。
1998年に約10年ぶりにアニメソングを歌唱し、同年ベストアルバム『佐々木功シングルコレクション '73?'87』をリリース。以降、アニメソング歌手としての活動を本格的に再開する。2004年より定期的に行われているライブイベント「スーパー戦隊“魂”」では、公演座長を務めている。
以降も現在に至るまで俳優(声優)業、歌手業を並行して行い、2011年に「第5回声優アワード」において功労賞[17] を受賞、2015年には「東京アニメアワード2015」において歌手としてアニメ功労賞[18] を受賞している。 趣味は、オーディオ・ビジュアル[1]、釣り[1]、ゴルフなど[1]。とりわけオーディオやホームシアターへの造詣は深く、専門誌でコラム連載の経験もある[19]。普通自動車運転免許[1]、四級小型船舶操縦士免許所持[1]。 父方曽祖父は海軍主計総監で初代海軍主計学校長の奈良真志[20][21]、見込まれその娘と結婚した祖父は東京帝国大学出身で海軍主計中将の佐々木重蔵[22][23]、父は早稲田大学出身の一級建築士[20]、母方祖父は父方と同じ東京帝国大学出身で朝鮮火薬製造監査役を務めた寺井俊治[24][25]、母方祖母の兄は満州国最高法院院長の井野英一、農林大臣・法務大臣などを歴任した井野碩哉[20][26] というエリート一族で、両親からは両祖父の母校でもある東京大学への進学を望まれていた。本人も東大理・工学部志望で、成績も武蔵で1?3位と良かった[26]。が、高校二年頃だんだんと勉強が面白く感じなくなっていき、成績も下降気味だった折、友人の薦めで日本テレビののど自慢番組に出た所、審査員長だった服部良一に「君は東京のプレスリーだね」と褒められたことから歌手を志すようになり[27]、当時法務大臣だった井野が日本コロムビアのディレクターと知り合いだったことから、紹介してもらいテストを受ける[26]。その場に立ち会ったのが東洋企画を立ち上げたばかりの堀威夫で、やはりプレスリーに似ていると評価され、そのまま堀のマネージメントを受けることとなった[26]。当時の担当マネージャーには、相澤秀禎もいた[28][29]。 なお、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー・西崎義展、SF設定等を担当した豊田有恒とささきの3人は武蔵高等学校の同窓[注 2]であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと[30]。
人物・エピソード