さくらももこ
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]
1990年 - 宮永とともに、自身の創作活動のための会社「株式会社さくらプロダクション」を設立[5][6][7]。設立当初は宮永が社長を務めた[6]。
1991年 - 初エッセイ集『もものかんづめ』(集英社)発表。10月より宮永とともにニッポン放送『オールナイトニッポン』月曜1部のパーソナリティを務める。(1992年10月まで)
1992年1月2日 - ドラマ『さくら家の人びと』がNHKにて放映(脚本:東多江子)[8]。事前にさくらが脚本及びキャスティング案を提出していたにもかかわらず、さくら側の意向を無視して脚本の改変やキャスティングの変更が行われていたことを、2024年2月に宮永が明かしている[9]。
1992年9月 - 『ちびまる子ちゃん』のアニメが一旦放送終了。
1992年 - 第27回新風賞受賞(『さるのこしかけ』)[10][11]。
1992年 - 第27回造本装填コンクール「コミックス部門」受賞(『神のちから』)[12]。
1994年4月 - 長男、陽一郎[15][注 3]誕生。
1995年1月 - 『ちびまる子ちゃん』のアニメが放送再開(第二期)。
1995年 - 第30回造本装填コンクール「日本図書館協会賞」受賞(『そういうふうにできている』)[16]。
1996年 - 仕事と子育ての両立が難しくなったこともあり、両親を東京に呼んで再び同居するようになる[17][注 4]。
1997年 - 『コジコジ』がアニメ化される( - 1999年)。自身が脚本も手掛ける( - 1999年4月)。
1998年 - 宮永と離婚。自著ではその前年に別居に踏み切ったとの発言もある[18]。宮永はさくらプロダクションからも去り、さくらが同社代表となっている[19]。
1999年4月 - 1991年以降(『コジコジ』は1997年の放映開始時点)から継続してきた、『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』のアニメ脚本の仕事を降板、同時に脚本監修もさくらプロダクションの多田弘子に託した。降板理由について、さくらは「毎週脚本を2本書き続けなければならない状況が窮屈になってきた」「『私の人生にはいつまでもホッとする間がないのか』と思うようになっていた」と後に自著で述べている[20]。後任の脚本家には、小学校時代の同級生である平岡秀章も名を連ねた。なお、降板後も、不定期で脚本を手掛けた[21]。
1999年12月 - 自ら編集長を務めた雑誌『富士山』(新潮社)の第1号が発売される。
2000年代
2000年 - NHK全国学校音楽コンクールのために「こうしていよう」を作詞。
2002年 - 親子共作による絵本+エッセイ『おばけの手』を発表。原案担当の長男はさくらめろん名義[注 3]。
2003年 - イラストレーターうんのさしみと再婚。
2005年 - デビュー20周年を記念し、各地で原画展「さくらももこワールド 20年の軌跡展」を開催。
2005年 - エッセイ『ひとりずもう』(小学館)発売。2007年度末時点で30万部突破と、エッセイでは久々のヒット作となる[22]。2006年には、『ビッグコミックスピリッツ』で漫画版の連載が同年10号より開始( - 2007年51号)。
2006年 - 4月18日、『ちびまる子ちゃん』実写ドラマ化。自身は第1話の脚本も担当。
2006年 - 10月27日、完結した長文型式のエッセイとしては最後の作品となった『おんぶにだっこ』(小学館)発売。なお、Q&A形式のエッセイは2007年、絵日記シリーズのエッセイは2012年までは新作の発表を継続。
2006年 - 10月31日、『ちびまる子ちゃん』実写ドラマ第2作放送。
2007年 - 4月19日、レギュラーとして実写ドラマ+バラエティの複合番組『まるまるちびまる子ちゃん』放送開始。原作を同じくする実写とアニメが同時期に放送される珍しいケースとなる(2008年2月28日放送終了)。
2007年 - 7月1日、4コマ漫画『ちびまる子ちゃん』が中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞、日刊県民福井、北海道新聞、西日本新聞、河北新報、中国新聞、徳島新聞、神戸新聞朝刊にて連載開始。8月1日からは新潟日報でも連載が開始される(2011年12月31日連載終了)。なお、没後に東京新聞に掲載された記事によれば、この連載の当時から乳がんを患っていたという[23]。また、さくらとも関わりの深かったデザイナーの祖父江慎は、この時期のあたりから家族の方を優先して仕事を抑え気味にしていた、と彼女の没後のインタビューで語っている[24][注 5]。
次ページ記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:153 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef