さいたま市
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大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示した[37]。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意にこぎつけたが、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなった。大宮町は、交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた日進・三橋・宮原・大砂土の4村と11月に新設合併を行い、大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。

太平洋戦争中は、埼玉県内を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦争末期の1945年(昭和20年)には、浦和に第36軍が置かれた。市域では4月14日に浦和と大宮が、5月26日に再び浦和が空襲を受け死傷者が生じ、また浦和への爆撃予告ビラが投下されるなどしたが、県内最大の空襲である熊谷空襲のような大規模空襲に遭うことはなかった[39]。終戦後進駐軍の占領下になると埼玉会館に埼玉軍政部が置かれた。
現代[ソースを編集]みそのウイングシティ

2001年に戦前(1927年)から数度浮上した合併構想が結実し、浦和・大宮・与野の合併によりさいたま市が発足した。2005年には岩槻を編入し現在に至っている(下記)。戦後、現市域内のインフラ整備は著しく、浦和市域を東西に走る武蔵野線1973年)、浦和・与野・大宮の3市を南北に走る埼京線1985年)および東北新幹線上越新幹線1982年、大宮駅以南の開業は1985年)などを初めとした鉄道路線が開業し、浦和・岩槻の2市を南北に通る東北自動車道1972年岩槻IC以南の開業は浦和ICまでは1980年浦和TB以南は1987年)、浦和市域を東西に通る東京外環自動車道1992年、市域内にインターチェンジの設置はされなかった)、浦和・与野・大宮の3市を南北に通る首都高速道路埼玉大宮線1998年)などの高速道路や、新大宮バイパス上尾道路西大宮バイパス東大宮バイパス岩槻春日部バイパス蓮田岩槻バイパス・岩槻鳩ヶ谷バイパスなどの国道バイパスを始めとした一般道路の整備が行われた結果、至近の現市域も人口流入が進んだ。特に浦和市は県庁所在地として、大宮市は商業の中心としてそれぞれ発展した。平坦な地形から住宅開発が進み、旧4市域の人口は1990年代に100万人を超え、合併後には130万人となり、京都市に次ぐ国内9位の都市となった(日本の市の人口順位参照)。現在も複数の区画整理事業(一覧)が進められており、今後も市街地の拡大が見込まれる。埼玉スタジアム2002を中心としたみそのウイングシティは、計画人口3万人以上の市内最大規模の開発事業となった。また、主要駅周辺部では再開発事業(一覧)が活発化し、高層建築物が増加した。市内で最も高さがある建物はさいたま新都心にあるランド・アクシス・タワー(略称:L.A.タワー)(168m)、最も階数が高い建物はライブタワー武蔵浦和(38階)となっている。2023年SDGs先進度調査において全国815市区のうちさいたま市が1位となった。
浦和市・大宮市・与野市の合併[ソースを編集]

合併に関する経過と合併後の沿革。旧市に関する詳細な歴史は各4市の項目を参照。

1953年昭和28年) - 9月、町村合併促進法が制定される。いわゆる「昭和の大合併」の始まり。

1954年(昭和29年) - 2月、埼玉県が県内323市町村を81市町村にまで合併再編する合併試案を示し、浦和市・大宮市周辺では浦和市・大宮市・与野町・大久保村・土合村の2市1町2村による合併試案が示される。しかし浦和市は大久保村・土合村を編入する合併、大宮市は周辺6村を編入する合併を構想し、この枠組みでの合併は実現せず[40]。11月、与野町が大久保村に合併を申し込むも、実現せず[41]

1955年(昭和30年) - 1月、浦和市が大久保村・土合村を編入、大宮市が周辺6村(指扇村・馬宮村・植水村・片柳村・七里村・春岡村)を編入。2月、与野町議会に北部を大宮市、南部を浦和市に編入させ、中央部を残存させる案が提出されるも、反対議員や町民が議場を取り囲んで開会できず、与野町はそのまま残る[42]

1958年(昭和33年) - 市制施行により与野市が発足。

1962年(昭和37年) - 浦和市議会が、三市と川口・蕨での五市合併を呼びかけ。第一段階で三市、第二段階で川口・蕨との合併をするというものだった。

1973年(昭和48年) - 三市の市長が合併に関して初会談。また、北九州市の合併推進派の理論的支柱となった都市社会学者の磯村英一が、三市について「合併しなければ、背を向け続けるであろう」と警告。

1980年(昭和55年) - 10月、県南中央地域の都市間相互のゆるやかな連合を掲げ、浦和市、大宮市、与野市、上尾市伊奈町の4市1町および埼玉県による「埼玉中枢都市首長会議」が発足。

1982年(昭和57年) - 4月、従前の首長会議の名称を「埼玉中枢都市圏首長会議」に変更。9月、「埼玉中枢都市圏構想・基本構想」策定。

1985年(昭和60年) - 12月、「埼玉中枢都市圏構想」の名称を「さいたまYOU And Iプラン」(構成4市1町の英表記頭文字を組み合わせた名称)に変更。

1990年平成2年) - 7月、「政令指定都市化」を公約にして、新藤享弘が大宮市長に就任。だが、単独での実現は現実的には不可能であり、合併による政令指定都市化を目指すものだった。これには与野市長の井原勇も同調した。

1991年(平成3年) - 4月、「政令指定都市化」を公約にして、相川宗一が浦和市長に就任。これに難色を示した現職の中川健吉を破っての就任であった。

1992年(平成4年) - 4月、国土庁が4市1町の圏域を「埼玉中枢都市圏域業務核都市基本構想」として承認。

1993年(平成5年) - 6月、旧国鉄大宮操車場跡地に、国の10省庁17機関の移転決定。12月、4市1町の強固な連合を目標とした「彩の国YOU And Iプラン」を策定。以後、合併政令指定都市化の動きが活発化する。

1995年(平成7年)

3月 - 「合併促進決議」が浦和市議会、大宮市議会で可決、与野市議会も6月に決議を可決。この決議において「浦和を『行政の中心』、大宮を『経済の中心』、与野を『情報発信(文化)の中心』とする」という新市における三地区の位置づけが確認された。

7月19日 - 上尾市が浦和市・大宮市・与野市からの合併協議会設置請求に対し拒否回答。


1997年(平成9年)12月18日 - 任意協議会「浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」が設置される[43]

1998年(平成10年)

4月15日 - 新市の名称の議論を付託された「第2小委員会」が設置される。

10月30日 - 大宮市の提案に基づき、3市の市民代表・学識経験者・マスコミ関係者で構成される「浦和市・大宮市・与野市新市名検討委員会」が設置される(会長:兵藤サ埼玉大学学長)。

11月2日 - 第2小委員会開催。新市名検討委員会から、「新市の市名は公募することが望ましい」との報告を受ける。大宮市は公募方式に対し態度を保留するも、同月10日に新市名検討委員会は国内外からの公募を再確認。その後、上尾市・伊奈町を同時に合併しないことを理由に大宮市が審議をボイコットし、合併推進協議会の協議が停滞(上尾市・伊奈町を含めた合併は、大宮市が強く求めていたもので、両市町は彩の国YOU And Iプランに含まれる領域であるとともに、大宮市にとって自身を新市の地理的な中央部に置くためには両市町を組み込むことが死活問題であった)。浦和市は審議正常化を求め、逆に戸田市・蕨市も合併に加えることを提案(1962年に打ち出した合併構想案の一部を変えたものであった)。


1999年(平成11年)

6月25日 - 3市先行合併、合併後に上尾市・伊奈町の意向確認を行う旨の合意が行われ(いわゆる「 6・25合意」)、審議が正常化する。

8月 - 19日、大宮市議会の再反対で公募を先送り。28日、公募実施要項に「6・25合意」を盛り込むことで公募の実施を合意。31日、第14回第2小委員会で市名の公募の実施を合意。


2000年(平成12年)

1月10日 - 市名の公募を実施。期限の2月18日までに全国から67,665件、8,580種類の応募がなされる。その結果は、『埼玉市』が1位(7117票)、『さいたま市』が2位(3821票)というものであった。また合併を構成する各市の名称を用いる案は『大宮市』が3位(3008票)、『浦和市』が6位(1821票)となったが、大宮市以外の地域からの『大宮市』への応募は24.8%、浦和市以外の地域からの『浦和市』への応募は29.7%と少なく、浦和市からの『大宮市』への応募は1.1%、大宮市から『浦和市』への応募は3.7%であった[44]。また、『与野市』は100位以内に入らなかった[45]

3月26日 - 新市名検討委員会での検討の結果、『埼玉市』(公募1位)・『さいたま市』(2位)・『彩都市』(5位2495票)・『さきたま市』(7位1374票)・『関東市』(37位217票)の5案が市名候補として選考され、第2小委員会委員長および小委員会に報告される。

4月

4日 - 第22回第2小委員会が開催。浦和市・与野市から『さいたま市』、大宮市から『大宮市』の2つの市名案が提案される。なお、『大宮市』の名称は、大宮市の提案で設置された新市名検討案が提出した市名候補5案にはないものだった。

11日 - 第23回第2小委員会が開催。『埼玉』などの名称を使用しないでほしいとする要望書を提出した、行田商工会議所会頭・行田市埼玉地区自治会連合会会長が招聘される。

17日 - 第25回第2小委員会が開催。大宮市側は新市の市役所をさいたま新都心周辺地区に置くよう要求し、合併促進決議以来「行政の中心」と位置付けられている浦和市側の猛反発を受ける。最終的に「さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、将来の新市の事務所の位置についての検討や庁舎建設基金を創設を行う」旨[注釈 14]を合併協議書に盛り込むことで、新市名を『さいたま市』とすることに合意した[46]が、合併後は「将来の市役所の位置」に関する合併協定書の文言に関する解釈を巡って対立が見られる(当時から域内最大の人口を有し市の中心となる浦和市側の反発により、新市役所をさいたま新都心に設置すると明記されておらず、「意見を踏まえ…位置を検討する」という玉虫色の文章にされているため)。

24日 - 第21回合併推進協議会が開催。新市名を 『さいたま市』とする旨委員長報告があり、議案が提出。即日議決される。なお、さいたまの「さ」の字体は、2画目と3画目が連続した字体(「ち」の鏡文字)を正式としたが、市民などが住所を表記する際にはどちらでも構わないとしている。

29日 - 法定協議会「浦和市・大宮市・与野市合併協議会」が設置される。新市名が「さいたま市」に決定[47]


5月5日 - 浦和市・大宮市・与野市の市境域の旧国鉄操車場跡地にて、さいたま新都心がまちびらき。なお、この「さいたま新都心」という名称は、1999年4月に決まっていたものであり、市名「さいたま市」との直接の関係はない。

9月5日 - 合併協定調印式。


合併から政令指定都市へ[ソースを編集]

2001年(平成13年)

3月28日 - 大規模開発「みそのウイングシティ」(計画人口31,200人)の開発に先駆け、埼玉高速鉄道線および浦和美園駅が開業。

5月1日 - 浦和市・大宮市・与野市が合併し、さいたま市が発足。

7月29日 - 上尾市が「さいたま市との合併の是非を問う住民投票」を実施。「反対(58.3%)」・「賛成(41.7%)」という結果となる。

8月6日 - 伊奈町が合併協議を断念する旨を表明。8日には、上尾市が住民投票の結果を受け、合併協議を辞退する旨を正式に表明。

10月6日 - 埼玉スタジアム2002オープン記念イベントが開催される[48]

10月25日 - さいたま市誕生記念式典が開催される。市章制定[49]


2002年(平成14年)

4月1日 - さいたま市保健所が開設される[50]

5月1日 - 市の花(サクラソウ)、市の木(ケヤキ)、市の花木(サクラ)が制定される[49]

6月 - 2002 FIFAワールドカップの準決勝(ブラジルトルコ戦)など4試合が埼玉スタジアム2002で開催。

11月20日 - 市議会が「政令指定都市関連議案(区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例案)」を可決。


2003年(平成15年)

1月26日 - 岩槻市が「岩槻市の合併に関する住民投票」を実施。「さいたま市との合併 (52.6%)」・「合併しない (38.8%)」・「春日部市、宮代町、杉戸町、庄和町との合併 (8.5%)」との結果となる。

2月5日 - 住民投票の結果を受け、岩槻市がさいたま市に対し合併協議の申し入れを行う。さいたま市は、24日にこの申し入れを受け入れる。

4月1日

さいたま市が政令指定都市に移行し、9つの行政区が発足。

さいたま市の歌「希望(ゆめ)のまち」が誕生[51]


5月1日 - 新浦和橋有料道路が無料開放される[52]

5月 - さいたま市記念総合体育館「Vアリーナ」が開設される(桜区)[53]

7月15日 - 任意協議会「さいたま市・岩槻市任意合併協議会」設置。


2004年(平成16年)

4月28日 - ステラタウンがオープン(北区)[54]

5月26日 - 首都高速埼玉新都心線与野?新都心間が開通[55]

6月25日 - 法定協議会「さいたま市・岩槻市合併協議会」設置。


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