さいたま市
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宮脇は在任わずかで他県に転出して実現しなかったが[37]1931年(昭和6年)に宮脇が再び埼玉県知事に就任。持論を再び展開し、日進を加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」を強く提唱した[37]。しかし大宮町の負債総額が浦和町を大幅に上回っていたことから浦和町が合併に消極的であったといわれ[38]、合併は実現しなかった。1934年(昭和9年)、市制施行により浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。また、浦和・大宮・与野・六辻・三橋の1市2町2村の上水道を取り扱う「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団、現:さいたま市水道局)が設立され、「大埼玉市」構想の一部が実現した[37]

1939年(昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨などの一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示した[37]。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意にこぎつけたが、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなった。大宮町は、交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた日進・三橋・宮原・大砂土の4村と11月に新設合併を行い、大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。

太平洋戦争中は、埼玉県内を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦争末期の1945年(昭和20年)には、浦和に第36軍が置かれた。市域では4月14日に浦和と大宮が、5月26日に再び浦和が空襲を受け死傷者が生じ、また浦和への爆撃予告ビラが投下されるなどしたが、県内最大の空襲である熊谷空襲のような大規模空襲に遭うことはなかった[39]。終戦後進駐軍の占領下になると埼玉会館に埼玉軍政部が置かれた。
現代みそのウイングシティ

2001年に戦前(1927年)から数度浮上した合併構想が結実し、浦和・大宮・与野の合併によりさいたま市が発足した。2005年には岩槻を編入し現在に至っている(下記)。戦後、現市域内のインフラ整備は著しく、浦和市域を東西に走る武蔵野線1973年)、浦和・与野・大宮の3市を南北に走る埼京線1985年)および東北新幹線上越新幹線1982年、大宮駅以南の開業は1985年)などを初めとした鉄道路線が開業し、浦和・岩槻の2市を南北に通る東北自動車道1972年岩槻IC以南の開業は浦和ICまでは1980年浦和TB以南は1987年)、浦和市域を東西に通る東京外環自動車道1992年、市域内にインターチェンジの設置はされなかった)、浦和・与野・大宮の3市を南北に通る首都高速道路埼玉大宮線1998年)などの高速道路や、新大宮バイパス上尾道路西大宮バイパス東大宮バイパス岩槻春日部バイパス蓮田岩槻バイパス・岩槻鳩ヶ谷バイパスなどの国道バイパスを始めとした一般道路の整備が行われた結果、至近の現市域も人口流入が進んだ。特に浦和市は県庁所在地として、大宮市は商業の中心としてそれぞれ発展した。平坦な地形から住宅開発が進み、旧4市域の人口は1990年代に100万人を超え、合併後には130万人となり、京都市に次ぐ国内9位の都市となった(日本の市の人口順位参照)。現在も複数の区画整理事業(一覧)が進められており、今後も市街地の拡大が見込まれる。埼玉スタジアム2002を中心としたみそのウイングシティは、計画人口3万人以上の市内最大規模の開発事業となった。また、主要駅周辺部では再開発事業(一覧)が活発化し、高層建築物が増加した。市内で最も高さがある建物はさいたま新都心にあるランド・アクシス・タワー(略称:L.A.タワー)(168m)、最も階数が高い建物はライブタワー武蔵浦和(38階)となっている。2023年SDGs先進度調査において全国815市区のうちさいたま市が1位となった。
浦和市・大宮市・与野市の合併

合併に関する経過と合併後の沿革。旧市に関する詳細な歴史は各4市の項目を参照。

1953年昭和28年) - 9月、町村合併促進法が制定される。いわゆる「昭和の大合併」の始まり。

1954年(昭和29年) - 2月、埼玉県が県内323市町村を81市町村にまで合併再編する合併試案を示し、浦和市・大宮市周辺では浦和市・大宮市・与野町・大久保村・土合村の2市1町2村による合併試案が示される。しかし浦和市は大久保村・土合村を編入する合併、大宮市は周辺6村を編入する合併を構想し、この枠組みでの合併は実現せず[40]。11月、与野町が大久保村に合併を申し込むも、実現せず[41]

1955年(昭和30年) - 1月、浦和市が大久保村・土合村を編入、大宮市が周辺6村(指扇村・馬宮村・植水村・片柳村・七里村・春岡村)を編入。2月、与野町議会に北部を大宮市、南部を浦和市に編入させ、中央部を残存させる案が提出されるも、反対議員や町民が議場を取り囲んで開会できず、与野町はそのまま残る[42]

1958年(昭和33年) - 市制施行により与野市が発足。

1962年(昭和37年) - 浦和市議会が、三市と川口・蕨での五市合併を呼びかけ。第一段階で三市、第二段階で川口・蕨との合併をするというものだった。

1973年(昭和48年) - 三市の市長が合併に関して初会談。また、北九州市の合併推進派の理論的支柱となった都市社会学者の磯村英一が、三市について「合併しなければ、背を向け続けるであろう」と警告。

1980年(昭和55年) - 10月、県南中央地域の都市間相互のゆるやかな連合を掲げ、浦和市、大宮市、与野市、上尾市伊奈町の4市1町および埼玉県による「埼玉中枢都市首長会議」が発足。

1982年(昭和57年) - 4月、従前の首長会議の名称を「埼玉中枢都市圏首長会議」に変更。9月、「埼玉中枢都市圏構想・基本構想」策定。

1985年(昭和60年) - 12月、「埼玉中枢都市圏構想」の名称を「さいたまYOU And Iプラン」(構成4市1町の英表記頭文字を組み合わせた名称)に変更。

1990年平成2年) - 7月、「政令指定都市化」を公約にして、新藤享弘が大宮市長に就任。だが、単独での実現は現実的には不可能であり、合併による政令指定都市化を目指すものだった。これには与野市長の井原勇も同調した。

1991年(平成3年) - 4月、「政令指定都市化」を公約にして、相川宗一が浦和市長に就任。これに難色を示した現職の中川健吉を破っての就任であった。

1992年(平成4年) - 4月、国土庁が4市1町の圏域を「埼玉中枢都市圏域業務核都市基本構想」として承認。

1993年(平成5年) - 6月、旧国鉄大宮操車場跡地に、国の10省庁17機関の移転決定。12月、4市1町の強固な連合を目標とした「彩の国YOU And Iプラン」を策定。以後、合併政令指定都市化の動きが活発化する。

1995年(平成7年)

3月 - 「合併促進決議」が浦和市議会、大宮市議会で可決、与野市議会も6月に決議を可決。この決議において「浦和を『行政の中心』、大宮を『経済の中心』、与野を『情報発信(文化)の中心』とする」という新市における三地区の位置づけが確認された。

7月19日 - 上尾市が浦和市・大宮市・与野市からの合併協議会設置請求に対し拒否回答。


1997年(平成9年)12月18日 - 任意協議会「浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」が設置される[43]

1998年(平成10年)

4月15日 - 新市の名称の議論を付託された「第2小委員会」が設置される。

10月30日 - 大宮市の提案に基づき、3市の市民代表・学識経験者・マスコミ関係者で構成される「浦和市・大宮市・与野市新市名検討委員会」が設置される(会長:兵藤サ埼玉大学学長)。

11月2日 - 第2小委員会開催。新市名検討委員会から、「新市の市名は公募することが望ましい」との報告を受ける。大宮市は公募方式に対し態度を保留するも、同月10日に新市名検討委員会は国内外からの公募を再確認。その後、上尾市・伊奈町を同時に合併しないことを理由に大宮市が審議をボイコットし、合併推進協議会の協議が停滞(上尾市・伊奈町を含めた合併は、大宮市が強く求めていたもので、両市町は彩の国YOU And Iプランに含まれる領域であるとともに、大宮市にとって自身を新市の地理的な中央部に置くためには両市町を組み込むことが死活問題であった)。


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