さいたま市
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これにより後北条氏による支配は終わり、かわって豊臣秀吉の命で関東地方を与えられた徳川家康が関東入りした[28]
近世

徳川家康は、関東における支配を固める過程で、江戸の近隣に幕府領旗本領譜代大名を多く配置した。江戸時代幕藩体制下で現さいたま市域に置かれた藩としては、岩槻城を藩庁とする岩槻藩があり、現さいたま市域のうち、岩槻区域の大部分は岩槻藩領であった。一方、他の9区の区域は幕府領や旗本領を中心に、さらに寺社領や岩槻藩領が入りまじり、さらに相給も多いという、複雑で細分化された支配体系下にあった[29]

江戸時代に、現さいたま市域において街が形成されていたのは、浦和宿大宮宿与野町岩槻町および大門宿の5か所であった。このうち、岩槻町が唯一の城下町であり、またこの岩槻町と大門宿が、将軍の日光参詣や岩槻藩の参勤交代の経路として用いられた日光御成街道の宿場町である。また、浦和宿と大宮宿は、五街道の一つとして整備された中山道の宿場町であり、与野町は甲州街道と日光御成街道を結ぶ脇往還である奥州道中岩槻道の継立場として成立した街である。しかし、大門宿の規模は極めて小さく、また浦和宿や大宮宿も中山道の宿場町の中では比較的小規模であって、与野町の方が規模の大きい街であった[30]

江戸時代は、利根川荒川流域において、多数の河川の付け替えや沼地の干拓が行われた時代であり、現さいたま市域もその影響を大きく受けた。まず寛永6年(1629年)には、関東郡代伊奈忠治らが、利根川東遷事業の一環として、それまで現在の元荒川へと流れていた荒川の河道を、現在の熊谷市久下付近で締め切り、和田吉野川市野川を経由して入間川筋に流す河川改修を実施した。この河川の付け替えにより、元荒川筋では水害が減少して新田開発が盛んに行われるようになった反面、入間川筋ではより一層洪水の危険性にさらされることとなった[31]。同じく1629年には、灌漑用水の確保を目的として、現在の東浦和駅南東側付近の芝川を塞き止める八丁堤も築堤され、その上流側に見沼溜井が形成された。

1728年享保13年)には、享保の改革の一環として新田開発を進めていた徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、八丁堤を切り開いて見沼溜井を干拓して新田(見沼田んぼ)とし、それにかわる水源として利根川から見沼代用水(現さいたま市域は見沼代用水東縁見沼代用水西縁に分流)を開削させた。1731年(享保16年)には、もとの八丁堤があった付近に日本で最古級の閘門式運河である見沼通船堀が開削され、見沼代用水東縁・見沼代用水西縁と芝川をつなぐ内陸水運路となった。享保17年(1732年)には、見沼代用水西縁から分水するかたちで高沼用水路が開削され、見沼に続いて鴻沼が干拓された。

また、江戸時代には現在の上尾市域から、さいたま市南区域にかけての広い範囲が、紀伊徳川家徳川将軍家鷹場となっていた[32]
近代

明治維新の過程において、日本の地方行政に関わる制度が府藩県三治制慶応4年・明治元年〈1868年〉)、版籍奉還(明治2年〈1869年〉)、廃藩置県(明治4年〈1871年〉)と移行してゆく中で、現さいたま市域では明治2年1月28日(1869年3月10日)に大宮県が設置されたが、大宮県の実質的な県庁機能は東京府日本橋馬喰町に置かれた。同年9月には県庁が浦和宿(現:浦和区)に移転し、県名も浦和県へと変更された。一方、岩槻藩は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により岩槻県となった。その後、同年11月14日に、浦和県、岩槻県、忍県が合併して埼玉県が誕生[33]、県庁は旧浦和県庁に置かれた。

日本初の鉄道開業新橋駅 - 横浜駅〈現:桜木町駅〉間)から11年後の1883年(明治16年)には、日本鉄道上野駅 - 熊谷駅間(現:宇都宮線高崎線)が開通し、現さいたま市域では7月28日に、初の鉄道駅である浦和駅(旧浦和操車場)が開業した[34]。 

市域西部を流れる荒川は、1907年(明治40年)8月と1910年(明治43年)8月に水害を起こし、特に1910年の水害は関東大水害として知られる。荒川をはじめ埼玉県内の多数の河川が大雨により氾濫し、埼玉県や東京府の広い範囲が浸水するなど、大規模なものとなった。これらの水害を契機に、荒川では「荒川下流改修計画」「荒川上流改修計画」が策定され、一体的な治水対策や河川改修工事が行われるようになった。しかしながら、戦争を含む当時の日本の経済・社会情勢の影響を受け、工事は当初予定よりも大幅に時間を要することとなった。現さいたま市域は、荒川上流改修計画に含まれているが、これによる河川改修工事は、開始年が1918年大正7年)、付帯工事も含めた終了年は1954年昭和29年)のことである。これにより、さいたま市付近の荒川は、幅2km弱にわたる河川敷を有することとなった[35]

1923年(大正12年)の関東大震災は現在のさいたま市域、なかでも浦和と大宮の発展に大きな影響を及ぼすことになる。この時期、埼玉県では主要都市中心部で「耕地整理事業」の名による区画整理が始まっていたが、中でも早期に耕地整理事業が進み、震災の時点で既に中心部付近に整備された碁盤状の街区を設けていた旧浦和町は震災被害も軽微であった(死者は3名[36])。このため、壊滅した東京や横浜から人口が流入し、特に別所沼の周辺の浦和駅西側地域には画家をはじめとした富裕層や文化人が移住した。彼らは「浦和画家」と呼ばれる文化人コミュニティーを形成し、文教都市浦和の発展に寄与した。一方、大宮ではやはり震災を契機として、大宮町・大砂土村境界部に東京市の小石川から盆栽業者が集団移転し、盆栽村組合が設立されて厳格な景観に対する取り決めを行い、盆栽村が形成された。これら関東大震災後に浦和・大宮に花開いた文化は、現在でも文化的遺産となっている。

1927年(昭和2年)に宮脇梅吉が埼玉県知事に就任。宮脇は、県庁のある浦和の単独市制もしくは浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏実現を構想した。宮脇は在任わずかで他県に転出して実現しなかったが[37]1931年(昭和6年)に宮脇が再び埼玉県知事に就任。持論を再び展開し、日進を加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」を強く提唱した[37]。しかし大宮町の負債総額が浦和町を大幅に上回っていたことから浦和町が合併に消極的であったといわれ[38]、合併は実現しなかった。1934年(昭和9年)、市制施行により浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。また、浦和・大宮・与野・六辻・三橋の1市2町2村の上水道を取り扱う「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団、現:さいたま市水道局)が設立され、「大埼玉市」構想の一部が実現した[37]

1939年(昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨などの一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示した[37]。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意にこぎつけたが、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなった。大宮町は、交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた日進・三橋・宮原・大砂土の4村と11月に新設合併を行い、大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。

太平洋戦争中は、埼玉県内を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦争末期の1945年(昭和20年)には、浦和に第36軍が置かれた。


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