さいたま市
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

現さいたま市域には、旧石器時代より人が居住しており、大宮台地の関東ローム層から大古里(おぶさと、緑区)遺跡、明花向(みょうばなむかい、南区)遺跡などの遺跡から、旧石器時代の遺物が出土している[18]

縄文時代前期には、世界的な温暖化の進行により海面上昇が進み(縄文海進)、荒川元荒川の下流域は海面下に没した(奥東京湾。このうち、大宮台地の西側の水域は「古入間湾」とも呼ばれる[19])。このため、内陸県である埼玉県や栃木県でもこの時代の貝塚が発見されており、さいたま市内においても、当時の海岸線に近い大宮台地の縁辺部に白幡貝塚(南区)、大谷場貝塚(南区)、大戸貝塚(中央区)、中川貝塚(見沼区)などの貝塚が残されている。

寒冷化の進んだ縄文時代の後期・晩期の遺跡は少なくなるものの、岩槻区の真福寺貝塚(国指定史跡)、緑区の馬場小室山遺跡(埼玉県指定史跡)、南鴻沼遺跡(中央区)といった遺跡がある[20]

弥生時代古墳時代に入ると、本格的な水稲耕作が行われるようになる中で、低地をのぞむ台地の縁辺部や、低地の自然堤防に多くの集落が形成されるようになった。古墳は、植水古墳群側ヶ谷戸古墳群(西区)、大久保古墳群土合古墳群(桜区)など古入間川沿いの台地縁辺部や低地に多く見られる[21]
古代

律令体制が整備されると、現在の埼玉県や東京都を中心とする地域には、令制国として武蔵国が置かれた。現さいたま市のうち岩槻区は埼玉郡に、それ以外の9区は足立郡に含まれるようになった。『和名類聚抄』には足立郡に7つの郷が所載されており、そのうち堀津(ほっつ)、殖田(うえた)、郡家(ぐうけ)、発度(はっと)、大里(おおさと)の5郷を現さいたま市域内に比定する説があるが、堀津郷や発度郡はさいたま市外に比定する説もあり、定かではない。『延喜式神名帳』には、現さいたま市域では氷川神社調神社足立神社の3座が所載されている(式内社[22]大久保領家に足立郡の郡衙があったと推定されている。

武蔵など東国では平安時代中期に国司に抵抗する群盗の蜂起が続発して治安が悪化し、地方豪族荘園管理者などが農民などを集めて武装化するようになり、武士へと成長した。天慶元年(938年)、足立郡司として現在の浦和や大宮を含む足立郡一帯を支配していたと考えられる武蔵武芝と、武蔵権守の興世王・武蔵介の源経基との対立が生じた。これがやがて平将門の乱の契機となったが、乱に巻き込まれる中で武蔵武芝は失脚し、以降足立氏などが足立郡司として登場した[23]
中世

1160年平治元年)の平治の乱の際、源義朝に従って敗れた足立遠元はその後、足立郡に逼塞していたと考えられているが、治承4年(1180年)に挙兵して鎌倉入りした源頼朝から足立郡の郡郷領掌を安堵され、以後は有力御家人として重用された。足立遠元の屋敷は、現在の桶川市川田谷に比定する説と、現さいたま市西区の植田谷に比定する説とがある。この他、鎌倉時代に現さいたま市域に勢力を有した武士として、鼻和氏、麻弥屋氏、箕勾氏、渋江氏、柏崎氏などがある[24]

戸田市西部からさいたま市南区西部にまたがる佐々目郷は、正応6年(1293年)から4度に分けて鎌倉の鶴岡八幡宮寄進されたが、応永元年(1394年)以降、鶴岡八幡宮による支配に抵抗する農民の闘争が度々生じた[25]

室町時代の関東地方では幾度にわたる戦乱が生じ、現さいたま市域もその戦乱の場となった。観応の擾乱においては、観応元年(1350年)に羽祢蔵(現:桜区)にて合戦が行われ、足利尊氏方の麗経澄が足利直義方の難波田九郎三郎らを破っている[26]

また、享徳3年12月27日1455年1月15日)に享徳の乱が勃発すると、現さいたま市一帯は古河公方方と関東管領方との対峙の場となった。康正2年(1456年)には、古河公方の足利成氏の家臣である簗田持助が足立郡に討ち入ってその大半を押領した。また岩付城は、関東管領方の(扇谷上杉持朝の家臣である太田資清資長(道灌)父子による築城であるとする説と、古河公方方の成田正等による築城であるとする説とがあり、築城後も太田氏が城主となった時期について複数の説があるなど、両勢力の角逐が続いた。

その後、長享の乱1487年 - 1505年)における長期間にわたる山内上杉家扇谷上杉家との抗争を経て、関東地方における上杉氏の力は消耗し、かわって後北条氏の勢力が次第に拡大することとなった。大永4年(1524年)には北条氏綱の勢力が既に三室郷に及んでおり、このころから現さいたま市域一帯は岩付太田氏の勢力と後北条氏の勢力の接点となったが、やがて天文15年(1546年)の川越夜戦にて北条氏康軍が勝利すると、武蔵国における後北条氏の勢力拡大はさらに本格化した。そのような状況下で、やがて永禄7年(1564年)には太田氏資がその父である太田資正を追放して北条氏康に内応し、その結果、一帯は後北条氏の支配体制下におかれることとなった[27]

しかし、1590年天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐の過程で岩付城も陥落した。これにより後北条氏による支配は終わり、かわって豊臣秀吉の命で関東地方を与えられた徳川家康が関東入りした[28]
近世

徳川家康は、関東における支配を固める過程で、江戸の近隣に幕府領旗本領譜代大名を多く配置した。江戸時代幕藩体制下で現さいたま市域に置かれた藩としては、岩槻城を藩庁とする岩槻藩があり、現さいたま市域のうち、岩槻区域の大部分は岩槻藩領であった。一方、他の9区の区域は幕府領や旗本領を中心に、さらに寺社領や岩槻藩領が入りまじり、さらに相給も多いという、複雑で細分化された支配体系下にあった[29]

江戸時代に、現さいたま市域において街が形成されていたのは、浦和宿大宮宿与野町岩槻町および大門宿の5か所であった。このうち、岩槻町が唯一の城下町であり、またこの岩槻町と大門宿が、将軍の日光参詣や岩槻藩の参勤交代の経路として用いられた日光御成街道の宿場町である。また、浦和宿と大宮宿は、五街道の一つとして整備された中山道の宿場町であり、与野町は甲州街道と日光御成街道を結ぶ脇往還である奥州道中岩槻道の継立場として成立した街である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:410 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef