くノ一忍法
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1964年に東映京都撮影所(以下、京撮)に所長として復帰した岡田は京撮のリストラと平行して[13][18]任侠映画路線への転換を計っていたが[20][21]、新人の育成を企図し[13][22]、まだ助監督経験5年目の中島貞夫を監督デビューさせたのが本作である[7][9][23][24]。中島は岡田の東大の後輩であった。中島は当時組合活動に熱心で鈴木則文たちと会社の批判ばかりやっていて、岡田との団交が何度ももたれた[22][25][26]。「オマエ、能書きばっかりたれとらんと、企画の1本でも出さんかい!」と言われた中島は、とっさのことで、どうせこちらの企画が通るなずもないと茶化したつもりで、たまたま読んでいた「"くノ一忍法帖なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた[9][23]。当時、山田風太郎原作の同書はベストセラーになってはいたが、男女の忍者が“アレ”と“ソレ”を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった[25]。ところが数日後、中島は岡田に呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われ[9][27]、さらに数日後、「あんなん監督やるもん誰もおらん、お前やってみい」[9][28]「裸、バンバン入れてなァ」[25]「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」などと言われた[9][23][25]。岡田がこの企画を取り上げる気になったのは、くノ一が様々なセックス秘技を繰り出して老忍者の精を吸い取って殺すお色気ものと知ったからである[26]。中島は監督に昇進するときは山本周五郎の『ちゃん』あたりでと秘かに期していたのに[8]、このままではデビュー作がエロ映画になってしまう[7][23]。脳天割りのようなショックを受け、所長室の床で土下座して岡田に許しを請った[9]。しかし30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れた[25]今井正に「君、監督になるにはあと10年かかるよ」と言われていたこともあって[25]、やむなく承諾[9][23]萬屋錦之介からは「お前とは絶交だ」と言われたが[9][24]、助っ人を東大の同期生の倉本聰に頼んだ[9][23][14]。中島と倉本は東大在学中に共にギリシャ悲劇研究会を創立した親友で[29]、倉本は当時ニッポン放送を辞めてフリーとなり、日活で映画のシナリオを書き始めた頃だった[7][23][30]。本作で中島は監督デビューを果たした[31]。倉本の本作の脚本料は10万円だった[12]
脚本

倉本聰が中島に連れられ京撮へ。初めて岡田茂に会った時の印象について「その柄の悪さ、体のでかさ、声の大きさ、てっきり本物のやくざだと思った」と話している[12]。開口一番、岡田「お前か、中島の同級生ちゅうんわ」 倉本「は」 岡田「こいつ(中島)は働くのはよう働くが頭でっかちで大学の映研や。当る映画がちっとも判っとらん。それで面白い原作とって来てやった。山田風太郎の"くの一忍法帖"や。女という字を分解してくの一や。


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