釜萢ヒロシ名義で『檻の中の野郎たち』(東宝映画)に出演したこともある[6]。
さまざまな盛場へ出向くことや、ロカビリー歌手時代の映画出演の際の東宝や日活の撮影所での交流などで、時代に名を残すスターたちと出会う。これらの活動から、音楽評論家の松村雄策はかまやつを日本初のロック・ミュージシャンと位置づけている。 「ザ・スパイダース」にゲストボーカルで参加した後、正式メンバーとしてヴォーカルおよびリズムギターを担当、代表曲である「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」「フリフリ」「なんとなくなんとなく」などを作曲した。1970年9月の最終シングル「エレクトリックおばあちゃん」は、かまやつの作曲である[7]。 当時から晩年までかまやつは遅刻魔として有名で、デビューシングル「フリフリ」のジャケット撮影時も遅刻したため、彼の姿は写っていない。また、堺正章は「あるとき、かまやつの遅刻に気付いてアパートに電話をしたが、出た相手に『かまやつさんは出発しました』と言われた。電話を切った後でその相手こそがかまやつだったと気付いた」というエピソードを語っている。 ほかにもかまやつは、印象的なステージダンスやステージの服装関連といったザ・スパイダースの音楽的なアイディアマンとしてグループの中心人物だった。また、当時のトップレーサーである福澤幸雄や式場壮吉らと親交があり、ファッションリーダー的存在であった。紳士服メーカー「エドワーズ」企画部長でもあった福澤からは衣装提供などを受けた。 1970年2月25日に初の本格的なソロ・アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』を発売。このアルバムは、当時は世界的にも珍しかった「一人多重録音」という画期的な方法で制作された[注 1]。また、音楽的にもさまざまなジャンルを融合した実験的な作品であった。その反面、1970年4月に発売されたソロシングル「どうにかなるさ」は、もともとザ・タイガースの岸部修三(現・一徳)と岸部シロー兄弟のデュオアルバム『Sally & Shiro』のために書き下ろされた曲のセルフカバーであったが、カントリーシンガーとしてのルーツに回帰する意向も反映された。1970年代初頭のフォークブームに触発され[8]、主導権を奪ったフォークシンガーの吉田拓郎に接近し[8][9]、吉田作品の「シンシア」[10][11]、「我が良き友よ」などを歌う[4][8][12][13]。「我が良き友よ」は90万枚を超えるセールスを記録し代表曲とした[9][12][14]。1975年のフォーライフ・レコード設立の際も参加を希望したが、契約の問題などで参加できなかった[8]。また「ウォッカ・コリンズ」へのゲスト出演や、タワー・オブ・パワーが演奏を務めた「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を発表[注 2]。ウォッカ・コリンズのリード・シンガー、アラン・メリル、ザ・テンプターズのドラマーだった大口広司や、作詞家の安井かずみらとともにイタリアンレストラン「キャンティ」常連組の一人であった。テレビアニメ作品『はじめ人間ギャートルズ』のエンディングテーマとなった「やつらの足音のバラード」[注 3]もよく知られ、2004年にはスガシカオによってカバーされている。 空虚なヒット歌手の座に居心地の悪さを感じたかまやつは、1970年代後半からはライブを中心としたマイペースな活動を展開した[9]。フュージョン、シティ・ポップ、ニュー・ウェイヴ等、音楽のトレンドに敏感に反応したアルバムも数枚リリース[9]。1980年代以降は、若い世代のミュージシャンたちとコラボ企画で交流を深めていった[9]。当時の音楽活動について「1975年ころから僕自身、当時のポップ・シーンに手がつけられなくなって探ってました。レコードが出せるようになるまで10年かかりました」と述べている[8]。 音楽活動のかたわら、テレビドラマ『時間ですよ』や映画『戦国自衛隊』といった映像作品にも出演している。1977年2月、朝日放送『ハロー・ヤング』の司会を務め、これに出場したレイジーの才能を見出してデビューの誘いをかけた。その後、デビューしたレイジーに楽曲提供もしている。しかし、本来ハードロック志向だったレイジーが所属事務所の意向でベイ・シティ・ローラーズのようなアイドル路線でデビューさせられたことは予想外だったようで、のちに「レイジーをあのような形でデビューさせたことを後悔している」と述べている[15]。 1990年代初頭のアシッド・ジャズブームで、前述した「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が再評価され、1994年にバックミュージシャンにブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジェームス・テイラー、D.C.リーなどを起用してロンドンでレコーディングした「Gauloise」を、小山田圭吾が主宰するレコードレーベル・トラットリアから発表する。このアルバムで新たに若い層のリスナーを獲得し、その後もCORNELIUS(コーネリアス)、カヒミ・カリイのアルバムやコンサートに参加する。 2002年には小西康陽プロデュースのアルバム「我が名はムッシュ」を発売する[16]。松任谷由実、小山田圭吾、ミッキー・カーチスなどがコメントを寄せ、堺正章との共演曲などが話題を呼んだ。
ザ・スパイダース
ソロ活動(1970年以降)