お蔭参り
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また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には大坂などの見物を楽しむ者も多かった[24]。流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、北陸など真宗の信徒が多い地域には広まりにくかった傾向がある。死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。一番多いのは、おふだふりである。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと言う。これは伊勢信仰を民衆に布教した御師がばら撒いたものだともいわれる。伊勢神宮参詣は多くの庶民が一生に一度は行きたいと願う大きな夢であった。

このような庶民階級も含む大規模な参詣は、当時のあらゆる参詣に通じる普遍的現象ではなく、ほとんど伊勢参宮特有の現象であった[25]。これは、伊勢参りが敬虔な信仰心のみならず、多分に観光的要素も含むものであったために、伊勢参宮への熾烈な国民感情が普遍的に存在したということ、伊勢参宮の国民的義務観や参宮制止への神罰観が普及・徹底し、家長や領主などの支配階級が下層民の伊勢参宮に対して寛容にならざるを得なかったこと、こういった要素が伊勢参りを全国的かつ汎階層的なものとした[25]
お伊勢講

しかし、制度上は誰でも伊勢神宮参詣の旅に行くことは可能だったとはいえ、当時の庶民にとっては伊勢までの旅費は相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利が失われたり、数回に一度は講員全員が参詣する「総参り」が行われるなど、「講」の所属者全員がいつかは参詣できるように各講ごとに配慮されていたようである[26]。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、農閑期が利用される[27]。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。

なお、近世における伊勢講は、村役人が取り仕切り、伊勢参宮のための積立費用の支出は村の公的な支出を記した帳面に記される[28]など、参宮を目指す者の個人的な寄り合いというよりも、全村的性格を有するものであり、伊勢講は、村の氏神に次ぐ重要な祭礼と位置付けられていた[26]

出発にあたっては、ほら貝を吹き回すなどして村中に告知され[29]、「でたち」「おみおくり」などと呼ばれる盛大な見送りの儀式が行われる[30]。また、同一の村や地域で複数の伊勢講が存在する場合、担当する御師が同じである場合が多いので、混雑を避けるために参拝の時期をずらしていた[31]。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事に帰ると、「坂迎え」などと呼ばれる帰還の祝いが行われ、帰還者は自宅には帰らずに、まず他家にて旅装束を解き、神札や土産物を配布してから自宅に帰る「はばきぬき」と呼ばれる習慣も広く見られた[30]。江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きい[32]

「伊勢講」の史料的初見は、山科教言の日記『教言卿記』の応永14年(1407年)条に「神明講(伊勢講の異称)」とあるものであり、嘉吉元年(1443年)の徳政令では、神明講が徳政令の適応を受けないと記されていることから、室町時代にはある程度広い階層に伊勢講が広がっていたことが推定されるが、この時期には伊勢講の分布は畿内にとどまっていた[33]。伊勢講は、地侍層の受容後農民にも浸透し始めたが、初期段階の講では、地侍層が講親となって農民に加入を強要し、農民にだけ懸金を課してそれを収奪することが見られた[34]。室町時代中期ごろに入ると、農民の経済力が向上した畿内の経済的先進地区などで、農民が主体の講が見られはじめ、これらの地域からは中小農民層の参詣も見られるようになる[35]。さらに江戸時代に入ると、郷村制の発達により伊勢講の成立基盤が一般化し、全国的に伊勢講が普及した[36]。江戸時代には、伊勢参宮とは無関係の講にも伊勢講と名付けられたり、商業組合の名前にも伊勢講と名付けられたりするなど伊勢講は広く社会に浸透し、単に伊勢参宮を目的とするのみならず、共同体における親睦団体化する例も多く見受けられ[37]、平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。なお戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた(無尽講を参照)。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存している地域もある。

「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていた。
伊勢の御師参宮者が御師の手代と落ち合う様子。「伊勢参宮名所図会」より。

神宮御厨における在地領主の伸長に伴って、御厨からの年貢の滞納が頻発するようになったため、望みを祈祷して対価を得はじめたのが、伊勢神宮の御師と檀那の関係の始まりである[38]。荘園制が崩壊して御厨からの収益が断たれ、神宮経済の基盤が御厨からの収益から参宮者のご祈祷料や宿泊料へと基軸が移る中世後期には、御師の活動は本格化し、御厨などの土地関係から離れ、広く全国の人々と師檀関係を結んでいくようになった[39]。その担い手も、当初は「神人(じにん)」と呼ばれる荒木田度会姓を持つ中下級神主層であったが、中世後期には、代官として在地の人々との接触に慣れてきた「神役人(じやくにん)」と呼ばれる伊勢の町衆層に移り変わった[40]。御師は、各地の伊勢講をにぎり、伊勢講員との間に師檀関係を結んで檀家を広げていったが、室町時代には在地領主などの武士層から、より広い階級が伊勢御師の檀家となっており[41]、戦国時代には大名と師檀契約を結んでその領内の人々を自らの檀家とする御師も現れ、伊勢信仰が拡張していった[42]


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