お湯殿上日記
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注釈^ 『言継卿記』天文17年1月12日(1548年2月21日)条によれば、後奈良天皇がある件について調べるために過去の『御湯殿上日記』を調べたところ、そこが亡き父である後柏原天皇の直筆の部分であったことが記されている[3]。
^ 『薩戒記』応永32年11月6日(1425年12月15日)条において、後小松院が記主の公家・中山定親に対し、宮中のことは女房が扱ってはいるが、それを記録できる者がおらず、自身が記録していたが、度重なる火災で失ったことを嘆く記述がある。この時期には『御湯殿上日記』が存在していなかった可能性が高く、松薗斉は後小松院の没後に宮中を主導した後花園院が宝徳2年(1450年)前後に開始したとする説を提示している[4]。
^ 文献は他に御湯殿上日記研究会『お湯殿の上の日記の研究 宗教・遊芸・文芸資料索引』(続群書類従完成会、1973年)がある。
出典^ 『御湯殿の上』 - コトバンク
^ 『御湯殿上』 - コトバンク
^ 松薗斉『日記の家 中世国家の記録組織』(吉川弘文館、1997年)P194-95
^ 松薗・前掲
参考文献
桜井秀「御湯殿上之日記に就いて」(『風俗研究』5、1916、後、同氏『風俗史の研究』宝文館、1929所収)
是澤恭三「御湯殿上日記に就て」(『歴史と国文学』53、1932)
和田正夫「御湯殿上日記の研究(上)(下)」(『国史学』12・13、1932)
和田正夫「御湯殿上日記の一特質」(『歴史と国文学』71、1934)
是澤恭三「東山御文庫御秘蔵の御湯殿上日記の由来」(『歴史と国文学』105、1938)
花山院親忠「御湯殿の上の日記の文体」(『國學院雑誌』47?8、1941)
佐藤謙三「『御湯殿上の日記』より」(『國學院雑誌』48?3、1942)
是澤恭三「御湯殿上日記の構成」(『国史学』49・50、1944、後、同氏『王朝文学前後』角川書店、1969所収)
是澤恭三「壬生院筆「御湯殿上日記」解説」(『國學院雑誌』55?2、1954)
是澤恭三「「御湯殿上」の間の性格(一)・(二)」(『日本学士院紀要』9?3、10?1)
花山院親忠「御湯殿の上の日記の性格」(『佐賀龍谷学会紀要』7、1959)
是澤恭三「御湯殿上日記の研究 伝播編(一)?(六)」(『日本学士院紀要』15?2・3、16?1?3、17?1、1957?59)
是澤恭三「お湯殿の上の日記選釈」(『ぐんしょ』4?5、1965)
玉山成元「『御湯殿上日記』にあらわれた浄土宗」(『印度仏教学研究』20?1、1971)
御湯殿上日記研究会編『お湯殿の上の日記の研究 宗教・遊芸・文芸資料索引』(平文社、1973)
小高恭『お湯殿の上の日記の基礎的研究』(和泉書院、1985)
脇田晴子「宮廷女房と天皇―『御湯殿の上の日記』をめぐって―」(『日本中世女性史の研究』東京大学出版会、1992)
中井由貴「女房詞と漢語―『お湯殿の上の日記』の文体に関する一考察」(『女性史学』4、1994)
湯川敏治「『御湯殿の上の日記』に見る宮廷の女性たち」(『古文書研究』56、2002)
井上真生「『御湯殿上日記』の基礎的研究―執筆方法・執筆者について―」(『神戸大学国文論叢』37、2007)
井上真生「近世期における女房日記の視点と方法―長橋局による記録を中心にして―」(『神戸大学国文論叢』40、2008)
松薗斉「戦国時代禁裏女房の基礎的研究―後土御門?後奈良天皇期の内裏女房一覧―」(『愛知学院大学文学部紀要』44、 2015)
外部リンク
『御湯殿上日記』 - コトバンク
典拠管理データベース: 国立図書館
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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