お市の方
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古くは永禄7年と考えられてきたが、同8年12月に六角承禎の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走したものの長政側の賛同を得られずに一度頓挫していて[7]、次の機会であった、永禄10年(1567年)9月[8]または永禄11年(1568年)早々[9]の1月から3月[10]ごろ[注釈 7]であったとされる。このとき同10年9月に長政側から急ぎ美濃福束城主・市橋長利を介して信長に同盟を求めてきたとされ[9][7]、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされる[注釈 8][注釈 2]。この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている[注釈 9]

その後、長政との間に3人の娘を儲ける[注釈 5]。この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている[注釈 10]

元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思える[13]。一方で、末娘の江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したとある[14]

長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝[注釈 11]によって救出され織田家に引き取られる。

その後は、従来は市と三姉妹は伊賀国の兄・信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされたが[15]、近年の研究成果では、市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説もでてきている[注釈 12]、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居することになる[17]福井県福井市の西光寺にある柴田勝家・お市の方の墓

信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した。従来の通説では、神戸信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの説もある[注釈 13]。婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われた[8]。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。

天正11年(1583年)、羽柴秀吉と対立していた勝家が4月の賤ヶ岳の戦いで敗れたため、勝家は敗走して越前北ノ庄城に帰城する。秀吉はこれを急追して城を包囲して激しく攻め立てた。落城の前夜、城を枕に切腹する覚悟を決めた勝家は、市に城外退去を勧めたが、市はこれを拒んで共に自決すると誓った。三人の娘だけは死出の道連れにするのを憐れんで富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとに届けさせ、お市の方も「主筋」であるから大切にしてほしいとの書状を添えた[19]。それから勝家と市、一族、直臣、女中衆は、夜を徹して酒宴を催して今生の別れをした上で、4月24日、80名余で共に自害した[19][注釈 14]享年37。北ノ庄城には火が放たれて焼け落ちた。詳細は「北ノ庄城の戦い」を参照

辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」 ? 『桃山時代の女性』[20]『戦国の女性』[19]

現在の墓所は西光寺(福井県福井市)で、菩提寺は如意輪山願応寺自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)、高野山持明院。戒名は願応寺では自性院殿微妙浄法大姉[3]、東禅院殿直伝貞正大姉、高野山持明院の『江州浅井家之霊簿』におれば照月宗貞禅定尼[3]。また、小谷城跡(滋賀県長浜市)のある小谷山山頂に旧跡がある。
人物
逸話柴田神社(福井県福井市中央)にあるお市の方の銅像

小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる。

長女の淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせた[21]。この肖像画は高野山持明院に伝えられており、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものである。下着を3枚かさね着にし、肩と裾だけに片身替わりの模様のある小袖を着て、その上に白綾の小袖をかさね、一番上の美しい模様の着物を肌ぬぎにしている。平安時代の宮廷の女官が着た十二衣のかさね着などと比べると、同じ正装でも著しく簡略化され、開放的になってきたことがわかる[22]

『朝倉家記』によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという広く知られた逸話があるが、この逸話は後世の創作と言われている[23]。もっともその頃の風習から、大名間の政略結婚において、女性は実家から婚家へと送り込まれた外交官間諜としての側面があったため、市は、両家をとりまく状況の変化を情報として得て、それを実家に伝達をする役割を果たしていたことが窺える[24]

『溪心院文』によれば、37歳の時点で、実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの体であったという[25]

3人の娘たちの行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めた(『溪心院文』)[26]。また、血統の存続を考えての行動でもあった。なお、徳川家に嫁ぎ多くの子を成した江(崇源院)により、その血筋は現在に至るまで続いている(崇源院#系譜参照)。

祖父物語』によれば市は「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高く、『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」とあって貴人として尊敬されたという描写がある[3]

伝説

三重県阿山郡阿山町(現在の伊賀市)下友田・浄光寺の稲増家の墓所に浅井長政の墓碑がある。稲増家の始祖治郎左衛門は浅井家の重臣であったが、浅井家滅亡ののち、「日比」、さらに「稲増」と苗字を改めて、享保年間に入って、伊勢・伊賀を支配する藤堂家に仕え、伊賀忍術の皆伝を受けたという。現在地には、今も江戸時代以来の稲増屋敷が残されているが、同家の土蔵にお市の方の「のど仏」が納められていると伝えられている[27]
系譜

徳川家光の系譜

                 

 16.
松平清康
 
     

 8. 松平広忠 


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