お化け暦(おばけごよみ)とは、明治から昭和にかけて、民間で違法に発行された暦書(カレンダー)である[1][2][3]。1872年(明治5年)の改暦詔書に基づき官暦である本暦・略本暦から日の吉凶などを示す暦注が迷信として排除され[4][5]、1910年(明治43年)以降は旧暦の併記も取りやめとなったため、これらを求める庶民に歓迎された[3]。単に「おばけ」[6][7]「オバケ」と略して呼ばれることもある[8]。
厳しい取り締まりと戦時体制下の紙不足によって1941年(昭和16年)以降は激減した[9]。太平洋戦争終戦後には暦書類の発行が自由化されたことで[10][11][12][13]、「お化け暦」という呼称は消滅した[2][14]。今日、各地で販売されている運勢暦や開運暦と呼ばれるものは、お化け暦の後裔であるとされる[1][3]。 お化け暦には、『民用日記』や『九星方位明治日用便』、『農家便覧』などといった名称が付けられて流通した[8]。政府による摘発を逃れるために、発行所は毎年転々とし、発行人は偽名であり、正体がつかめないことから「お化け暦」と呼ばれた[6][8][10][15]。発行人名には、「藤の井徳兵衛」や「福永嘉兵衛」といった縁起のよさそうな名前が使われた[16]。体裁は、神宮司庁の発行していた略本暦とほぼ同じで、中には、頒暦商社や神宮司庁の発行した本暦・略本暦に貼付された頒暦証紙を模したものが貼られているものまであった[3][16][17]。 内容は、新暦とともに旧暦の日付を載せ、方位の吉凶をはじめとした暦注が記載されていたほか[18]、祝祭日や寺社の祭礼縁日、年中行事なども紹介されていた[3][16]。また、お化け暦には暦注として六曜・九星・三隣亡などが記載されているが[10][19][20][21]、これらの選日は幕末から明治にかけて流行したとされており[3][16]、それまでの暦書には掲載されたことがなかったものであった[11][12][19][20]。 ただし、お化け暦は暦学の専門家が監修していたわけではないため必ずしも正確とはいえず、時にはお化け暦同士でも食い違いが生じることもあった[3][16]。特に、流派によって違いのある九星や[18]日取りに曖昧な点のある三隣亡は、間違いや食い違いが多かった[3][16]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}『明治17年農家便覧』(お化け暦の一つ) 江戸時代、実質的な編暦の権限は朝廷の陰陽頭である土御門家から幕府の天文方に移り[22][23]、天文方が作成した暦案に陰陽頭配下の暦博士である幸徳井家が暦注を付け、それを大経師が印刷して各地の暦師が頒布した[23]。明治維新を迎え江戸幕府が倒れると天文方も廃止となり[22]、明治2年(1869年/1870年)暦の編暦の権限は再び土御門家に与えられた[22][24]。
特徴
歴史
背景詳細は「明治改暦」および「神宮暦」を参照