戦後、キャラメルの生産の再開を真っ先に行ったのはグリコである[35]。他の大手である森永製菓、明治製菓が配給統制により、生産販売に制限を受ける中、グリコは調達できる範囲で材料を集め、おもちゃつきのグリコを菓子でなく、食品つき玩具として販売した[35][16]。これは、玩具として販売することで配給統制による規制をすり抜ける方法であった。
1949年(昭和24年)11月菓子類の統制がはずされ、森永製菓、明治製菓だけでなく多数のメーカーでキャラメルの生産と自由販売が始まった。それに伴い、1950年(昭和25年)グリコのおまけサックも復活した[36]。
しかし、自由販売後のグリコのキャラメルは必ずしも順調というわけではなかった。これは、後述する紅梅キャラメル、カバヤキャラメルの登場の影響もあった。グリコが成功するのは、1956年(昭和31年)の本物の小鳥があたるという「幸運の小鳥さがしキャンペーン」である[37]。この後も、切手、コインなどこれらの収集ブームに合わせたキャンペーンを行っていき成功していった[37]。 1947年(昭和22年)に設立された紅梅食品
紅梅野球カード
カバヤ児童文庫「カバヤ児童文庫」も参照
同じ時期、登場した菓子メーカーの中にはおまけの工夫により、爆発的に販売数を増やすものもあった。1952年(昭和27年)、岡山のカバヤ食品が製造・販売したカバヤキャラメルもそのひとつである[43]。キャラメルに50点集めることによりハードカバーの児童用の文学全集から1冊を手に入れることができるポイントを添付した。当時高価であった児童文学書をキャラメルの購入で簡単に入手できるということから、学校単位での購入も行われることもあった[43]。しかし、翌1953年(昭和28年)カバヤ食品は大きな戦略上のミスを行ってしまう[44]。キャラメルのおまけに新たに、カバヤマンガブックを交換対象に加えてしまった。これは、学校、PTAなどの反発を買い、カバヤキャラメルの不買運動にまで発展した[44]。 昭和30年代後半となると、テレビの普及および、生活水準の変化とともにおまけの内容も変化してきた。1961年(昭和36年)、明治製菓は、マーブルチョコレートを発売し、当時の糖衣チョコ
マーブルチョコレートと鉄腕アトムのシール
これらの成功はキャラクターグッズの添付が売れ行きに大きく影響を与えることを示した。そして、玩具メーカーにこの分野が利益になることを示し、日本のキャラクタービジネスの先駆けとなった[50]。
仮面ライダースナックとライダーカード「仮面ライダースナック#仮面ライダーカード」も参照