おはようスタジオ
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1985.04.01(月)[注 9]1985.09.27(金)[注 10]月曜 - 金曜 7:15 - 8:00(45分)さつきりせ
1985.09.30(月)[注 11]1986.03.28(金)[注 12]青田浩子
1986.03.31(月)[注 13]1986.06.27(金)[注 14]月曜 - 金曜 7:25 - 8:15(50分)日のり子

コーナー出演者とスタッフ

英語のコーナー

1984年10月 - 1985年3月 Mike Rogers
(ラジオDJ)

おはスタマヌカン(和泉佳保里磯部あや、沢和子、森景真紀、川口里奈、山下純子中村友美[要曖昧さ回避])一般公募で1万人の中から選ばれた中学生。

プロデューサーは棟武郎。制作協力は東通企画
エピソード

この番組が始まる前年までは、東京12チャンネルの平日の放送開始時間は、7時45分放送と遅かった。本番組を立ち上げるに際し、準備も含めると早朝5時からの勤務となることから労働組合の反対に遭った。それを踏まえ社員はプロデューサーとディレクターの2名のみとし、その他の番組制作スタッフは全て外部の制作会社の社員やアルバイトで賄っていたという。
なお、当番組開始(1979年)に伴い、東京12チャンネルの平日放送開始時間は6時半となった。

オープニングは当時の東京12チャンネル→テレビ東京本社(後の
東京タワースタジオ)の前にある東京タワーを見上げた映像にタイトルが表示されて、玄関前もしくはスタジオから司会者やゲストが出て来て放送がスタートするのが恒例だった。番組ゲストにアイドル歌手やタレントを多く招いたり、また各地の視聴者の子供と電話を繋げたりと、のちの『おはスタ』とはやや形式が異なる。また、ゲストについては新人アイドルを「おはようさわやかさん」と題して招いて紹介するほか、「今週の歌」として1週間通して出演させることもあった。デビュー4か月目、2ndシングル『涙のリクエスト』をリリースする直前のチェッカーズは1984年1月9日から13日まで連日出演して生演奏を披露、僅か数日のうちに知名度をあげてブレイクのきっかけを作った[16]

毎朝、東京12チャンネル→テレビ東京の外には、開校記念日などで学校が休みだった小中学生やアイドル目当ての学生などを中心に見物客が集っていた。

番組初期は、開局15周年記念に一般公募で選ばれた「トゥェルブメイツ」のメンバーが日替わりで出演もしていた。さらに晩年には「おはスタマヌカン」[注 15]のメンバーがレギュラー出演していた。

月曜から金曜まで曜日ごとにテーマを変えての番組構成だった。これは当時、担当制作会社が日替わり(終了時点で東京ビデオセンター・BMC・東通企画のローテーション制。最終回は3社共同)だったことによる苦肉の策である、また、アイドルタレントを呼ぶのも、廉価なタイアップで視聴率を取るための策だったとされる。

収録に使う第3スタジオが30坪で学校の教室程度と狭かった。そのため、鏡張りにして2倍の広さに見せたり、2台のスタジオカメラの他、ハンディカメラを本社玄関前(雨天時はロビー)に用意し、テレビ東京及び東京タワーの敷地である駐車場や道路もスタジオのように使ったりしていた。
1985年12月、港区虎ノ門(神谷町)に2代目本社が完成し、芝公園の旧本社が「テレビ東京スタジオセンター」と改称された後も、番組は基本的に第3スタジオからの生放送が続けられた(時刻表示・提供クレジット・CMを含めた番組送出などは神谷町の本社から)。なお、一部不定期に神谷町本社から放送された回もあった。

最終回は芝公園スタジオ第1スタジオからの生放送で、一般の観客や歴代女性司会者も招いての放送となった。オープニングは『いとしのエリー』(サザンオールスターズ)をBGMにタワーボウル(現在とうふ屋うかいが所在する場所)前の公園からタワーボウルの敷地に入り、横の路地からスタジオ前の駐車場を通り、ロビーへ入って第1スタジオに入るまでをハンディカメラ1台で走りながら向かう映像から始まった。この日は志賀が一般視聴者と電話をつないで話をする企画が行われ、船の科学館を志賀と日高が訪れてタイムカプセル(後述)を見に行くVTRも紹介された。番組終盤の午前8時前後には志賀から最後の挨拶があり、その中で「僕としてはただ一つだけ悔いに残ることがあります。今年の正月に僕は10年間日本の朝を作ろうと決心したんです。(番組終了は)その矢先だったんです。10年間ということはあと3年間(1989年まで)はおはスタの朝を皆に送り続けようと考えていました。そういった意味では、今回の途中打ち切りは本当に残念です。(中略)朝のけだるい時に僕が騒いで皆さんを楽しませた朝の楽しみを、そういう意味では君たちから奪ってしまいました。ごめんなさい、お詫びします。(拍手)僕は特にこれからの夏の朝が大好きで、テレビも大好きです。『おはようスタジオ』が大好きでした。7年間本当にどうも皆さんありがとうございました。」と番組がある事情で突如打ち切りになった事をうかがわせる発言や終了に対しての想いなどを語った。そして本編終了までの約10分間は『さよなら』(オフコース)と『十七歳の地図』(尾崎豊)をBGMにVTRと涙する志賀を囲み拍手を送ったり、花束や手にした一輪の花を送ったりする大勢の観客・歴代女性司会者を映した映像を切り替えながら締めくくった。

放送時間は番組開始当初は午前7時30分 - 8時30分だった。しかし、通学時間帯と被るため「番組が途中までしか見られない」「番組自体見られない」という小・中学生を中心とした視聴者の声(この時代、後半パートは実質的に主婦層を主軸にしたコーナーがあった)で7時5分からに繰り上げ。後にさらに5分繰り上げて7時からとなった。さらに祝祭日は「休みの日はゆっくり寝ていたい」という声で午前9時開始になるなど、柔軟な編成が行われた。

不定期に「台本のないおはスタ」という企画を放送していた。これは放送時間の大枠とCM枠以外はコーナーを決めずに進行するものである。この企画当日に出演する歌ゲストのマネジャーには、スタジオ入りの際カラオケ持参を命じられた。とはいえ、ゲスト出演の歌手はこの企画に関係なくカラオケを持参していた。

子供たちの間で流行していたものには他局放送番組など、しがらみに関係なく取り上げた。その一例として当時東京放送(現・TBSテレビ)で平日夕方に再放送されていた『ザ・モンキーズ・ショー』が子供達の間で人気となるとザ・モンキーズを数多く取り上げ、デイビー・ジョーンズミッキー・ドレンツピーター・トークらメンバーに国際電話でインタビューし、ついには、日本に呼び寄せるきっかけをつくりブームに貢献した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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