中尾本は大阪の古書店「中尾松泉堂書店」2代目店主・中尾堅一郎が阪神・淡路大震災で半壊した自宅から1996年に発掘した芭蕉自筆本とされるもので、元禄時代に弟子の野坡(やば)が所持したとされることから野坡本とも呼ばれる[12][13][14]。曾良本は、中尾本に見られる芭蕉の推敲が入ったものを門人が筆写したとされるもので、曽良が所持していたとされ、1972年より天理大学が所有する[13][14]。
曽良本以降に芭蕉の弟子で書家の柏木素龍(そりゅう)が清書した柿衞本(柿衞文庫所有)・西村本(福井の篤農家・西村孫兵衛家所有(1944年に再発見[15]))がある[11][13][14]。この柿衞本・西村本は共に素龍本(素龍清書本)とも呼ばれる[* 4]。 西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており[16]、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく[17]。この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増し刷りされ広まったため版本は多く残る(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。 1938年(昭和13年)に曾良本(そらほん)が発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本(かきもりほん)の存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本(やばほん)の発見とされた中尾本(なかおほん)の存在が発表されている[18]。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。 元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。 「草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家」 3月27日[20] 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。 「行く春や 鳥啼(なき)魚の 目は泪」 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」 4月4日 黒羽(栃木県大田原市)を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪 4月5日 雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。 「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」 4月9日 修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。 「夏山に 足駄を拝む 首途哉」 4月19日 温泉神社(栃木県那須町)に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。 「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」 「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」 「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」 5月4日 多賀城(宮城県多賀城市)、壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。 5月9日 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)芭蕉は美観に感動したあまり「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」と自らは句作せず、代わりに曾良の句を文末に置いた[* 5]。 「松嶋や 鶴に身をかれほとゝぎす」曾良 5月13日 藤原3代の跡を訪ねて平泉(岩手県西磐井郡平泉町)にて。 「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」 「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。
出版経緯
旅程
足立区(千住宿入口:左側)と荒川区(南千住駅前:右側)でそれぞれに碑を建てているが、芭蕉が隅田川の南岸(荒川区側・当時江戸)に降りて出発したのか、北岸(足立区側)に降りて出発したのかの「千住論争」が存在する[19]。
蕪村画 逸翁美術館
江戸、旅立ち
矢立の初め
日光
黒羽 雲巌寺 光明寺
那須 温泉神社 殺生石
白河の関
飯坂の里
多賀城
松島
平泉
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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