あさま山荘事件
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注釈^ 山荘の正式名称は「浅間山荘」であるが、事件当時から警察およびマスコミは事件名を「あさま山荘事件」と表記し、『警察白書』においても事件名としては「あさま山荘事件」が用いられている[1][2][3]。2010年代のマスコミ報道においては、「浅間山荘事件」を用いる例もみられる[4]。以下、本項目の文章では『警察白書』に基づき、事件名は「あさま山荘事件」と表記する。
^ 正式には河合楽器製作所の健康保険組合が所有する「軽井沢保養所浅間山荘」であった。
^ 俗に「代々木派」と呼ばれる国政政党の日本共産党とは無関係
^ この際「アベックを見ませんでしたか」と警察に尋ねられ、それが森と永田であったことを知ったのは二人の逮捕をニュースで知ってからだったという。
^ 浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある。
^ この直前、2人は道中で職務質問を受けるが、すぐに解放される。これを受けてすぐにベースに戻ることを主張した永田と、警察を警戒して山を通って迂回してベースに戻ることを主張した森との間で意見が割れ、結局森の意見を採用したために警察に先回りされ、逮捕へと繋がった
^ 加藤倫教は坂口による籠城の決定を受けて、「籠城すれば、捕まるか、撃ち殺されるか、そのどちらしかない」と考え落胆したという[23]
^ 坂口は吉野にはこう説明したが、内面では政治的主張と現在の状況に乖離を感じていたこと、同志殺害が発覚するのは必至と見て徹底抗戦することが左翼的良心の発露だと思っていたことがその理由だったという。しかし警察から政治的主張を言えと言われたことは坂口にとって「政治的敗北をヒシヒシと感じざるを得ない出来事」だった(坂口弘『あさま山荘1972 下』)
^ 目に入った催涙ガスをレモンで中和させるため
^ 坂口は「同志殺害の途方も無い過去を背負って、(中略)ひたすら闘うことのみが、左翼の良心を示す唯一の方法」と考え、要求や取引には一切応じないことにしていたという(坂口弘『あさま山荘1972 下』)
^ 坂口はこのときの約束を守り、実際にその後の裁判において弁護人が人質を証人申請しようとするのを検察側の調書に同意してまで拒んだ
^ 坂口はこの一件を「山岳ベースで闘争意欲を失っていた吉野」、「傷つきながらも闘争意欲はあった坂口」、「そもそも傷ついていなかった坂東」の意識の違いによるものと後に分析している。『あさま山荘1972下』
^ 吉野はこれを「『殺す』ことへのためらいがあった」ためと回想している。「このことも含めて私は『殲滅戦』を闘いきれず日和ってしまった、殺されずに生け捕りにされてしまった、との思いに捕らわれました。そこから自分が『革命戦士』たり得ぬのに、同志にそれを求め死なせたことを誤りと考えるようになったのです」(連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍』(2013年8月 晧星社)吉野雅邦「省察ーー連合赤軍私史」)
^ 判決では坂口は「殺意を持って」発砲したとされた
^ 警察側は寺岡の所在を把握していなかったため、山荘に潜んでいると考えていたが、実際にはすでに山岳ベース事件で殺害されていた。
^ クレーンのオペレーターへの聞き取り調査[36]
^ 犯人は殺傷性を高めるために頭部を狙うだけではなく、眼部を狙っていた。
^ 警察庁の拳銃使用許可は「適時適切な状況を判断し、適時適切に拳銃を使用せよ」というものであり、当事件及び数々の警備の現場を指揮していた佐々は拳銃使用許可について「威嚇射撃をせよ」「手足を狙って撃て」と具体的にしてくれないと困ると述べている[40]
^ 人質は夫に安否を知らせたい旨を犯人に伝えたが、犯人からは「警察は盗聴によって人質の無事を確認している」として拒否されていた。警察は盗聴を行っていたが、実際には正確な人質の安否は確認できていなかった。
^ 連合赤軍が10日間で104発の発砲をしているのに対し、警察側は実弾についてはわずか16発の威嚇発砲のみであった。この他に連合赤軍側はパイプ爆弾1発を、警察側は発煙筒12発、催涙ガス弾1489発、放水148.9トンを使用している[42]
^ 印旛沼事件山岳ベース事件など「連合赤軍のメンバー全員の詳細」が判明するのはほぼ解決後であるため、本事件発生前に籠城メンバー以外で逮捕されていないメンバーに関して、「籠城メンバーを囮に逃亡・潜伏して次のテロに備えている」や「寺岡恒一も籠城している」、「梅内恒夫も連合赤軍のメンバー」などの誤認・誤報が相次いだ。
^ 警察に逮捕されていない幹部が二人いたが、いずれも事件発生前に山岳ベースで殺害されていた。警察側はうち一名の殺害をあさま山荘事件解決以前につかんでいた。もう一人は警察が立てこもり犯の一人と見なしていた寺岡恒一である。
^ 実際に釈放されたのは奥平純三城崎勉大道寺あや子浴田由紀子仁平映泉水博の6名で、自ら釈放を拒んだ残り3名の中には元連合赤軍の植垣康博もいた。
^ この時坂口も釈放要求の対象となっていたが、「武装闘争は間違った闘争と結論を出しています」として釈放を拒否した
^ 一部資料に安田講堂を「登録有形文化財第1号」とするが、1996年(平成8年)12月20日付の登録物件は全部で118件あり、安田講堂のみを「第1号」とするのは適切でない[58]
^ 日本テレビのアナウンサー、NHKのアナウンサーにそれぞれ取材を行なっている(NHKのアナウンサーは2015年の取材)。

出典^ 昭和48年 警察白書
^ 昭和50年 警察白書
^ 昭和63年 警察白書
^ 昭和史再訪セレクション - 地球発 - どらく 朝日新聞
^ a b 引田惣彌 2004, pp. 118, 119, 229.
^ ニュース 「連合赤軍事件人質救出作戦始まる」 - NHKクロニクル
^ 久能靖 2002, p. 9.
^ 久能靖 2000, pp. 32?34.
^ a b c d e f g h 大泉康雄 2003.
^ a b c 加藤倫教 2003, p. 168.

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